アメリカにジョン万次郎記念館ができた!2009年05月11日 00時19分09秒

 毎日、ネットのニュースを追いかけている人にはすでに旧聞である
去る7日、米東部マサチューセッツ州フェアヘーブンで、江戸末期に漂流の末助けられて米国に渡ったジョン万次郎を記念する「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」の開館式典が開かれた

 「ホイットフィールド」は万次郎を助けた捕鯨船の船長、記念館もその船長のものだった家である 荒れ果てて売りに出ていた家を、聖路加国際病院の名物長寿理事長・日野原氏が修復を提案、募金を集めて買い取り修復を進めていたという

 有名な話だが、万次郎は彼の地で教育を受けて帰国し、後にペリーが来航したとき「隠れ」通訳、条約の締結他の重要な仕事を事実上担当した 少し長いが、以下は「Wikipedia日本版」の引用(「」部分)である

「 ・・嘉永6年(1853年) - 帰国から約2年後に何とか土佐に帰ることができたが、当時ペリーの来航によって幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、幕府に召聘され江戸へ行き直参の旗本となった。この際、生れ故郷の地名を取って「中濱」の姓が授けられた。英会話書『日米対話捷径』の執筆、『ボーディッチ航海術書』の翻訳、造船の指揮、講演、通訳、船の買付など精力的に働く。
 
 「繰り返される召し上げ(徴用)と放免(解任)」
藩校「教授館」の教授に任命されるが、やがて野に下された(役職を離れ庶民に戻る)。理由の一つには、もともと士族の生まれでない万次郎が、アメリカ人とも臆することなく、対等に交友することをやっかむ者も多かったことも挙げられる。また当時、英語をまともに話せるのは万次郎一人だったため、ペリーとの通訳に適任とされたが、(オランダ語を介しての)通訳の立場を失うことを恐れた老中がスパイ疑惑を持ち出したため、結局ペリーの通訳の役目から下ろされたが、実際には日米和親条約の平和的締結に向け、陰ながら助言や進言をし尽力した。
 
 万延元年(1860年) - 日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団の一人として、咸臨丸に乗ってアメリカに渡る。船長の勝海舟が船酔いだったため、万次郎は彼に代って船内の秩序保持に努めた。(ここでも彼はアメリカ人との対等な交友を日本人船員にそねまれることを恐れ、付き合い方には注意していたとされる)アメリカで恩人ホイットフィールドと再会し、身に着けていた日本刀を贈った。(この刀は後にアメリカの図書館に寄贈され、第2次世界大戦の最中であっても展示されていたが、後に何者かに盗難され現在は行方不明である)
 
 明治維新(1868年)後 - 開成学校(現・東京大学)の教授に任命される。・・・」 (以上Wiki引用部分)

 こう見てくると、万次郎は「日本の近代化」に多大に寄与した人間の一人であったと確実に言えよう 同時に、身分制社会での周辺の「心の狭い日本人」の姿も浮き彫りされてくる きっと当時の万次郎はいつも心の中で苦々しく笑っていたに違いない

 また売りに出ていた旧家を買い取って保存、日米友好の架け橋にしようとした日野原先生もお見事と言うしかない これをお読みになっている方で歴史がお好きな方は、機会があれば訪問してみては如何かと思う

(ニュースの出所:日経新聞2009/5/8)

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