ニュージー・クイーンズタウンは素敵な町2009年09月06日 06時29分25秒

 真夏の日本から真冬のニュージーランドに行ってきた 目的はスキー 成田から北島のオークランド、国内線に乗り換えて南島のクイーンズタウンへ

 クイーンズタウンは直訳すると「女王の町」 しかしヴィクトリア女王やエリザベス女王が名前の起こりではないらしい 「あまりに美しいのできっと女王様も気に入るに違いない」というから可笑しい

 しかし中国の山中の「シャングリラ」という命名よりは「説得力」がある シャングリラに行った人に訊くと、「あれはぜんぜんそんな町<理想郷>ではない」と仰るのだ

 クイーンズタウンは上の写真を見ていただければ分かるが、連なる山々には白雪が輝き、氷河由来と思しき湖は深い紺色で、空は澄んだ青色 町を歩けば繁華街も歩いて回れる範囲でこぢんまりしている 何よりも落ち着く

 そういう町をベースに、近隣スキー場と最高峰クック山そばのへリスキー・コースを滑ってきた 天候不順でいろいろあったが、結論としては「大満足」である これからまた親HPのその写真を上げていきたいと思っている

ジイさま曰わく「iPodはええのう」2009年09月07日 15時51分50秒

飛行機座席背もたれの便利なUSB端子
「うーん、やっぱりiPodはすごい!」 悔しいけどこう言わざるを得なかった 国際線の機内のことである

 わたしはいわゆる「ベイビーブーマー」のひとりである 若い頃はLPやEPレコード、後になってカセットテープやオープンリールテープで「青春時代」を過ごした者である

 社会人になってかなり経ってCDが登場した そのころのCD は発展途上で価格が高い上、音も切れはよい代わり硬質で大好きなクラシック音楽には不向きと思われた

 元々私はコロンビア・デノンの「2トラ38」という当時の放送局が使っていた様なテープレコーダーで、ソニー製C38Bというプロ級マイクを使って「生録」を趣味にしていた その音は新鮮でダイナミック・レンジも広く、市販のレコードなぞ問題にしていなかった

 だからCDが普及しても長い間テープのアナログの音を良しとしていた ところがある時ある場所でCDのクラシック曲を聴いた時、目から鱗がパリパリと落ちた 黎明期のあの「いやらしい音」が消え、自然な音に変わっていた それからというもの、数百本あったテープをCDに置き換えていった

 その後はマイカー車内も旅のお供もCDプレーヤーであった 多い時は20枚くらいは海外に持って行ったり、また海外でも購入した こうしてCDコレクションも数百枚になった

 ところが最近は若者を中心にいつも「iPodにイアフォーンまたはヘッドフォーン」という姿が多くなった それでも「頑固なオッサン」は自分に「CDの方が良いに決まっている」と言い聞かせてきた 「あんな物は邪道だ」と

 ある日、妻が「旅行にCDプレーヤーは止めて、iPodにしたら?」と言った 彼女は仕事がらみで、すでに一年以上前からiPodを使っていた 騙されたつもりで持参することにした 機内でもホテルでも聞きまくった 小さくて軽いし、CDの様にディスクを変える必要もない はじめは機能の使い方に抵抗があったが、これも慣れると合理的である

 バッテリーも何とかもっていたが、とうとう帰国の機内でアウト! しばし呆然であったが、前席の背もたれにUSB端子があることに気がついた 試しに繋ぐとすぐに充電が始まり、20分ほどでOKになった NZ機もエライが、iPodもエライ

 「うーーん、これは便利だ すごい!」と唸ってしまった アップル社はCPの分野でもアイデアで先駆者になった 最近ではiPhoneにこのiPod、アイデアと技術力、開発力がなければこういう製品はできない 類似品(ウォークマン)を作ったソニーの製品もよく売れているという

 「日本はすでにある物を改良するのは得意だが、無い物から作り上げていくのは苦手」と言われてきた やはり独創力こそが大切である エジソンを生んだのもアインシュタインが活躍したのもアメリカである (ただし経済・金融関係ではアメリカはもはや二流になってしまったが・・)

 いま日本では理系の学生が減り、「技術立国も危ない」と言われている 団塊の世代が引退し、技術の伝承も十分ではない 日本の教育も金太郎飴のような画一教育ではなく、もっと独創的な人間を育てる教育に変えないと、もはや世界をリードすることは難しいかもしれない

クイーンズタウンの戦争犠牲者慰霊碑2009年09月12日 19時24分50秒

ニュージランド、クイーンズタウンの慰霊碑
 ニュージランド南島の南部アルプスにあるクイーンズタウンは素敵な町である 名前の通り、「女王様も好きになるだろう町」なのだ 氷河は湖やアルプス風の山並みを作った 何度来てもまた来たくなる町なのだ それに中心地は「歩ける範囲」なのが良い

 私が毎年泊まるホテルは、「・・・・レイクサイド」の名のとおり湖畔にある 朝な夕なに湖畔を歩くと、海でもないのにカモメや水鳥が集い姦しい 人々もパンくずを持ってどこからともなく湖畔に集まる 鳥たちはあまり人間を恐れない あまり虐められたことがないのだろう

 そういう湖畔には遊歩道がある 毎年歩いていた道だが、今年はふとアーチ(小さな門)のレリーフの字に目がとまった それにはこう書いてあった 「1914-1918 SERVICE ABOVE SELF」、そして門の左右には「戦没者の氏名」が彫られてあった 要するに一般で言う「戦没記念碑」である

 第一次大戦当時、英連邦に属していた自治領ニュージーランドとオーストラリアは、初めての対外戦争として三国協商側 に参戦した 多くの戦闘のなかでドイツに支援されたオスマン・トルコとの「ガリポリの戦い」はあまりにも有名である 結論から言うと、死者数は同等であったが、イギリス・ニュージーランド・フランス・オーストラリア側の大敗北であった かくして連合軍はトルコから撤退する

 この時参加した二つの自治領軍はアンザック(ANZAC)軍と呼ばれたが、大半は志願兵(volunteer)であった この戦いでの戦死者はオスマン軍86000余にたいして、イギリス軍21000余、フランス軍10000、豪州軍8700でニュージーランド軍は2700であった ボーア戦争以外初の対外戦争であった両国では従軍記者により戦況が詳細に報道され、大苦戦の様子も逐一伝えられたため、両国民に衝撃を与えたという 現在「ガリポリ上陸の日」を両国とも「アンザック・デー」として祝日としている またこの戦いは映画にもなった

 話を戻そう 上記の碑(門)はその戦いの戦死者を慰霊するために作られた物であろう 第一次大戦も同盟・協商両側とも「完全な正義の戦い」とはいえないが、徴兵でもない志願兵が多数死んでも、「国に為に尽くした」として町中の公園に出身者を慰霊しているだ

 翻ってわが国では、「国家」が国家護持のため死んだ者を皇居近くのある場所に弔っている 国のために命を捧げた者を鎮魂するのは当然だが、あの場所には「国家に楯突いた」西南戦争の兵たちは祀られていないという そうすると明治維新に「日本のためにおおいに働いた」こともある偉大な西郷隆盛は祀られていないのであろうか 何かおかしい

そう考えてみると、慰霊碑、慰霊場所は仰々しい建物に祀るより、出身地の町中にさりげなく置かれる方がよい 後世の市民生活の場所にあることにより、彼らの行いと記憶は永久に生き続ける そこには特定の宗教もたいそうな儀式もない 彼らは市民と一緒に生きている 目にする人々の「愛国心」も増すだろう 西洋諸国を旅すると同様な慰霊碑を目にすることが多い(もちろん聖堂・教会内にも慰霊碑もメモリアルはあるが・・)

 先日、高野山の奥の院に行った 参道両側には大名などの立派な墓が並んでいた それらの中に島津氏による「(慶長の役)高麗陣敵味方戦死者供養碑」というのがあった 日本に攻め入って日本人を殺した敵兵も併せて祀る-というのが「日本武士道の鑑」といわれているという 同様な物が博多湾岸にあった 「蒙古兵の首塚」といわれる物である 「死んでしまえば敵も味方も同じ」という発想である そういう意味では「敵ながら天晴れ」という日本の「武士道」の伝統も明治以後は衰退したということであろうか
 
参考文献:「ガリポリの戦い」(Wikipedia)

チョーアナログな喫茶店2009年09月16日 23時38分56秒

 岡山県の県北、津山市の「できたての新しい喫茶店」に行ってきた-と書いても特段新鮮さはない 「店内全面禁煙、駐車場なし」ということ以外は特に変わったこともない店である しかしここのオーナー夫妻が私の長年の友人である

 遡って今から40年ほど前、筆者が就職後数年して職場に入ってきた男がいた 彼とは独身同士の気安さもあって仲良くなり、勤務時間後はよく食べに行ったり、飲みに行った 彼の車で交替運転で東京まで行ったり、あちこちを観光して回った その彼も組合活動のなかで好きになった女性と結婚し、やがては親の住む津山に帰っていった

 それから幾星霜、数年前彼から「早期退職した」という挨拶状が来た ここから先は「非常勤の勤務」だという そしてこの夏またも彼から葉書が来た 「長年夢として思い描いてきた喫茶店を開きました ぜひお越しください」と言う意が書かれていた 実家の母屋を改造して店にしたという  堅い職業をしていた彼がこれまた堅い職業だった奥様と柔らかい仕事の「喫茶店」を開いたことも驚いた

私たち「団塊の世代」は今や60代であるが、皆々元気である ホンの一部の物故者を除けば、「第二の人生何をやってやろうか?」という人たちばかりである 中学、高校の同窓会は盛んに開かれて旧交を温め直しているし、私も大学時代の友人と数年前から時々会っている

「人生わずか五十年」の時代ならもうすでに「好々爺」で孫と遊ぶのだろうが、今の六十代は「元気!元気!」である お金も少々あって時間がいっぱいある者たちである 海外旅行のリピーター、NPOを立ち上げて活動している者、ユネスコ・ユニセフなどでヴォランティアをしている者、友人とバンドを組んでがんばっている者、地域興しの中心者などなど毎日が忙しい人たちばかりである

こう考えると今までの職業とまったく関係ない「お仕事」を始めても、彼の言うように「長年の夢を実現した」だけのことである もっと言うと、「これをしなければ人生で後悔する」のであろう これも早期退職した私自身「これをしなければ後悔する」とばかりに大変よく旅に出かけ見聞をおおいに広めている そういう意味では、彼の心情は大いに理解できる

前置きが長くなったが、昨日その「彼の夢の店」に行った ドアを開けると、古い民家を上手に改造した落ち着いた店構えである 案の定「開店祝い」の花鉢が足の踏み場もないほど並んでいる 業者からの物はほとんど無い 彼が面倒を見た人たちや元同僚などからである 彼の人柄と人間関係の広さが伺われた

彼の店にはホットコーヒーは基本三種類、あとは紅茶、ジュースなどベーシックな物ばかり、軽食はサンドとトーストくらいでメニューは少ない 「食べ物を出すと儲かるらしい」というと、「儲からなくて良い」とさらっと言ってのける 「美味しいコーヒーを出し、客が喜んでくれ、話が弾めばよい」 そういう感じである

 そのくせ豆や水にはこだわっている 豆もUCCとかアートとかキーとかいう大手の物ではなく、地元のブレンダーが作り上げたマイナーブランド、珈琲用水は濾過器を通したもので、お冷やの水は「大山の自然水」なのだという 「自然水」といっても、当然谷川の水ではない

また彼は気まぐれである 時々頼んでもいないコーヒーを少しだけ入れてくれ、「これどう?」と訊く また時としてオツマミが出たりスルメが出たりすることもある 「どういう場合に出るのか?」と訊くと、「その日の気分と相手による」というアバウトな答えである この「超アナログ」な経営姿勢がこの店の魅力である この「ホッとするような雰囲気」が彼の理想でもある こうしていても客が三々五々やってくる 帰るときはみんな優しい顔である 

 その店の名前というのが「珈琲・優しい時間」である  津山にお行きになる方は「どのくらいアナログか」覗いてみては如何?

「優しい時間」・・津山市吹屋町7tel 0868-22-4871
            openhour10-18 定休日・木曜日
           場所は「アルネ津山」そば

PPMのマリー・トラバースさん、安らかに眠れ2009年09月19日 00時14分07秒

 今日、あの「PPM」のマリー・トラバースさんの訃報に接した 享年72歳 死因は白血病だそうだ ピーター・ポールアンドマリー(PPM)といえば1960年代から70年代にかけて一世を風靡した米フォークソング・グループである 「パフ」「花はどこへ行った」「悲惨な戦争」「レモントゥリー」「天使のハンマー」「500マイル」「虹と共に消えた恋」「風に吹かれて」「わが祖国」など多くの名曲、ヒット曲を出し、ヒットチャートのトップを独占し続けた

 日本でも多くのファンがいたが、中心は十代二十代の若者であった 彼らはただ聞くだけでなく、一緒に歌ったりPPMのようにギターを弾いてハモらせて楽しんだ かく言う私もその一人であった PPMの曲は覚えやすいメロディーだけでなく、彼らの美しいハーモニー、難解ではない素敵なギター、そしてたった一人の女性ヴォーカルであったマリーの声は一度聞いたら忘れられなかった

 歌詞は今の日本のヒット曲のような「ただの若者の歌」ではなく、「反戦」「平和」の思想や時としては「反体制」、「反原発」で「人の生き方」を考えることもバックボーンに大きく流れていた ちょうどヴェトナム戦争がひろがり、そして行き詰まり、アメリカ国民のなかにも息子たちを失ったひとびとのことが報道されていた時代である そういう空気のなかで、PPMを始めとしてボブ・ディラン、ジョーン・バエズなどがアメリカの若者の心を捕らえ、大きなうねりとなっていた

 PPMの曲はどれもただ「反戦」を声高に叫ぶのではなく、表面は若者の恋や愛をテーマにしながら、人間の心に「人間同士が殺し合う不合理さや理不尽さ」を訴えていた 「自分も死にたくない、愛する人にも死んで欲しくない、敵も殺してたくない」と伝えた 「国家が国家のため行う戦争」に反対するプロテスト・ソングであった

そういう意味で、当時またはその後に続いた日本の「フォークソング・ブーム」とはやや性格が異なっていた 日本では「ブルーシャトー」「若者たち」のように、歌詞が個人の心の問題や個人間の愛や夢が中心で、社会・国家のあり方までは言及していなかった 米ではヴェトナム戦争で仲間や知り合いが死んでしまう環境だからこそ、前述のような機運が高まったのであろう

 私たち(ベイビー・ブーマー)の学生時代も少し前から「安保闘争」や当時では「日韓条約」、「東大紛争」などがあり、当時の学生意識も今とは違って政治的に高いものがあった 「私たちが社会を変える」「世の矛盾を問う」という問題意識や連帯意識があった そういうなかで、アメリカのプロテストソングや反戦フォークソングは日本の若者にもかなりの影響を与えた

 しかし、こういうアメリカの学生・若者の反戦運動も弾圧されたり、退廃的なヒッピーなどが派生し、日本では「学園闘争」が武闘や仲間割れなどで挫折し、消滅していった 学園を巣立った若者たちは、「ふつうの社会人」になって高度経済成長時代を支えていった そういう「古い懐かしい」時代のメモリーの一つが「フォークソング」や「うたごえ」であった いずれにしてもあの「天使の歌声」、マリー・トラバースさんの冥福を祈りたい そして"Viva PPM !"