クイーンズタウンの戦争犠牲者慰霊碑 ― 2009年09月12日 19時24分50秒
ニュージランド南島の南部アルプスにあるクイーンズタウンは素敵な町である 名前の通り、「女王様も好きになるだろう町」なのだ 氷河は湖やアルプス風の山並みを作った 何度来てもまた来たくなる町なのだ それに中心地は「歩ける範囲」なのが良い
私が毎年泊まるホテルは、「・・・・レイクサイド」の名のとおり湖畔にある 朝な夕なに湖畔を歩くと、海でもないのにカモメや水鳥が集い姦しい 人々もパンくずを持ってどこからともなく湖畔に集まる 鳥たちはあまり人間を恐れない あまり虐められたことがないのだろう
そういう湖畔には遊歩道がある 毎年歩いていた道だが、今年はふとアーチ(小さな門)のレリーフの字に目がとまった それにはこう書いてあった 「1914-1918 SERVICE ABOVE SELF」、そして門の左右には「戦没者の氏名」が彫られてあった 要するに一般で言う「戦没記念碑」である
第一次大戦当時、英連邦に属していた自治領ニュージーランドとオーストラリアは、初めての対外戦争として三国協商側 に参戦した 多くの戦闘のなかでドイツに支援されたオスマン・トルコとの「ガリポリの戦い」はあまりにも有名である 結論から言うと、死者数は同等であったが、イギリス・ニュージーランド・フランス・オーストラリア側の大敗北であった かくして連合軍はトルコから撤退する
この時参加した二つの自治領軍はアンザック(ANZAC)軍と呼ばれたが、大半は志願兵(volunteer)であった この戦いでの戦死者はオスマン軍86000余にたいして、イギリス軍21000余、フランス軍10000、豪州軍8700でニュージーランド軍は2700であった ボーア戦争以外初の対外戦争であった両国では従軍記者により戦況が詳細に報道され、大苦戦の様子も逐一伝えられたため、両国民に衝撃を与えたという 現在「ガリポリ上陸の日」を両国とも「アンザック・デー」として祝日としている またこの戦いは映画にもなった
話を戻そう 上記の碑(門)はその戦いの戦死者を慰霊するために作られた物であろう 第一次大戦も同盟・協商両側とも「完全な正義の戦い」とはいえないが、徴兵でもない志願兵が多数死んでも、「国に為に尽くした」として町中の公園に出身者を慰霊しているだ
翻ってわが国では、「国家」が国家護持のため死んだ者を皇居近くのある場所に弔っている 国のために命を捧げた者を鎮魂するのは当然だが、あの場所には「国家に楯突いた」西南戦争の兵たちは祀られていないという そうすると明治維新に「日本のためにおおいに働いた」こともある偉大な西郷隆盛は祀られていないのであろうか 何かおかしい
そう考えてみると、慰霊碑、慰霊場所は仰々しい建物に祀るより、出身地の町中にさりげなく置かれる方がよい 後世の市民生活の場所にあることにより、彼らの行いと記憶は永久に生き続ける そこには特定の宗教もたいそうな儀式もない 彼らは市民と一緒に生きている 目にする人々の「愛国心」も増すだろう 西洋諸国を旅すると同様な慰霊碑を目にすることが多い(もちろん聖堂・教会内にも慰霊碑もメモリアルはあるが・・)
先日、高野山の奥の院に行った 参道両側には大名などの立派な墓が並んでいた それらの中に島津氏による「(慶長の役)高麗陣敵味方戦死者供養碑」というのがあった 日本に攻め入って日本人を殺した敵兵も併せて祀る-というのが「日本武士道の鑑」といわれているという 同様な物が博多湾岸にあった 「蒙古兵の首塚」といわれる物である 「死んでしまえば敵も味方も同じ」という発想である そういう意味では「敵ながら天晴れ」という日本の「武士道」の伝統も明治以後は衰退したということであろうか
参考文献:「ガリポリの戦い」(Wikipedia)
私が毎年泊まるホテルは、「・・・・レイクサイド」の名のとおり湖畔にある 朝な夕なに湖畔を歩くと、海でもないのにカモメや水鳥が集い姦しい 人々もパンくずを持ってどこからともなく湖畔に集まる 鳥たちはあまり人間を恐れない あまり虐められたことがないのだろう
そういう湖畔には遊歩道がある 毎年歩いていた道だが、今年はふとアーチ(小さな門)のレリーフの字に目がとまった それにはこう書いてあった 「1914-1918 SERVICE ABOVE SELF」、そして門の左右には「戦没者の氏名」が彫られてあった 要するに一般で言う「戦没記念碑」である
第一次大戦当時、英連邦に属していた自治領ニュージーランドとオーストラリアは、初めての対外戦争として三国協商側 に参戦した 多くの戦闘のなかでドイツに支援されたオスマン・トルコとの「ガリポリの戦い」はあまりにも有名である 結論から言うと、死者数は同等であったが、イギリス・ニュージーランド・フランス・オーストラリア側の大敗北であった かくして連合軍はトルコから撤退する
この時参加した二つの自治領軍はアンザック(ANZAC)軍と呼ばれたが、大半は志願兵(volunteer)であった この戦いでの戦死者はオスマン軍86000余にたいして、イギリス軍21000余、フランス軍10000、豪州軍8700でニュージーランド軍は2700であった ボーア戦争以外初の対外戦争であった両国では従軍記者により戦況が詳細に報道され、大苦戦の様子も逐一伝えられたため、両国民に衝撃を与えたという 現在「ガリポリ上陸の日」を両国とも「アンザック・デー」として祝日としている またこの戦いは映画にもなった
話を戻そう 上記の碑(門)はその戦いの戦死者を慰霊するために作られた物であろう 第一次大戦も同盟・協商両側とも「完全な正義の戦い」とはいえないが、徴兵でもない志願兵が多数死んでも、「国に為に尽くした」として町中の公園に出身者を慰霊しているだ
翻ってわが国では、「国家」が国家護持のため死んだ者を皇居近くのある場所に弔っている 国のために命を捧げた者を鎮魂するのは当然だが、あの場所には「国家に楯突いた」西南戦争の兵たちは祀られていないという そうすると明治維新に「日本のためにおおいに働いた」こともある偉大な西郷隆盛は祀られていないのであろうか 何かおかしい
そう考えてみると、慰霊碑、慰霊場所は仰々しい建物に祀るより、出身地の町中にさりげなく置かれる方がよい 後世の市民生活の場所にあることにより、彼らの行いと記憶は永久に生き続ける そこには特定の宗教もたいそうな儀式もない 彼らは市民と一緒に生きている 目にする人々の「愛国心」も増すだろう 西洋諸国を旅すると同様な慰霊碑を目にすることが多い(もちろん聖堂・教会内にも慰霊碑もメモリアルはあるが・・)
先日、高野山の奥の院に行った 参道両側には大名などの立派な墓が並んでいた それらの中に島津氏による「(慶長の役)高麗陣敵味方戦死者供養碑」というのがあった 日本に攻め入って日本人を殺した敵兵も併せて祀る-というのが「日本武士道の鑑」といわれているという 同様な物が博多湾岸にあった 「蒙古兵の首塚」といわれる物である 「死んでしまえば敵も味方も同じ」という発想である そういう意味では「敵ながら天晴れ」という日本の「武士道」の伝統も明治以後は衰退したということであろうか
参考文献:「ガリポリの戦い」(Wikipedia)
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