むかしの町並みの残る高知県安田町 ― 2011年11月05日 17時53分38秒
私たちの「歩き四国遍路」も五回目を迎えました いわゆる「通し打ち」ではなく「区切り打ち」のうえ、最初に遍路を志した妻が「チョー」鈍足のため、「歩き」通常の標準時間を大幅に上回ったので、今回は第二十七番神峯(こうのみね)寺からの再スタートでした
そういうなかで、ある遍路宿で出会った九州から来られた「遍路は三周目」という方と朝食でご一緒しました 「妻の足が遅いのでなかなか・・・・」と言うと、「遍路はスピードが大事ではありません 心から大師様と一緒と気持ちと信心の心があればいいのです 遅いからと言って恥じることなどないのです むしろそういう考えは大師様の教えに反しています・・」と諭されました まことに重い言葉でした
そうして始まった今回の歩きでしたが、室戸から高知に向かう遍路前半で安田町という町に入りました 此処はむかしの町並みが残る素敵な町でした 道幅は狭いが、格子窓や木戸がつづく家並みは歩いていても癒されます そういう中に「安田まちなみ交流館 和(なごみ)」がありました 町の入り口に「お遍路さんも休憩できます・・どうぞ・・」と表示がありました
しばらく歩いてその前にきました むかしの医院と隣接する伝統的日本建築は目に付きます 早速入ると一人の老婦人が接待して下さいました 掃除機を使っていましたが、私たちを座敷に上げて茶菓を下さいました 「土日は遍路さんも多く接待の準備をしていたのですが・・」と申し訳なさそうに話してくれました お話していると、この町を心から愛している様子が伺えました
伺うと、この屋敷「柏原家」「市川医院」は持ち主が町にすべてを寄贈し、町が五千万ほどかけて修復、「交流館」として再生し遍路にも休憩所として解放しているとのこと 有り難い話です 現在も手入れが行き届き、高知の伝統的日本家屋を代表する建物といえます
そういう屋敷の座敷には写真のような屏風がさり気なく置いてありました 骨董品にはトンと疎い私ですが、何となく惹きつけられたので撮ったのがこの写真です この安田町、いつまでもこの建物を大事にして欲しいと思います 高知の田舎もなかなかステキです
内部リンク:歩き遍路の風景(5)
http://konotabi.com/HenroShikoku88/Scenery3/top.htm
外部リンク:安田時間
http://www.yasudajikan.com/kankorb.html
そういうなかで、ある遍路宿で出会った九州から来られた「遍路は三周目」という方と朝食でご一緒しました 「妻の足が遅いのでなかなか・・・・」と言うと、「遍路はスピードが大事ではありません 心から大師様と一緒と気持ちと信心の心があればいいのです 遅いからと言って恥じることなどないのです むしろそういう考えは大師様の教えに反しています・・」と諭されました まことに重い言葉でした
そうして始まった今回の歩きでしたが、室戸から高知に向かう遍路前半で安田町という町に入りました 此処はむかしの町並みが残る素敵な町でした 道幅は狭いが、格子窓や木戸がつづく家並みは歩いていても癒されます そういう中に「安田まちなみ交流館 和(なごみ)」がありました 町の入り口に「お遍路さんも休憩できます・・どうぞ・・」と表示がありました
しばらく歩いてその前にきました むかしの医院と隣接する伝統的日本建築は目に付きます 早速入ると一人の老婦人が接待して下さいました 掃除機を使っていましたが、私たちを座敷に上げて茶菓を下さいました 「土日は遍路さんも多く接待の準備をしていたのですが・・」と申し訳なさそうに話してくれました お話していると、この町を心から愛している様子が伺えました
伺うと、この屋敷「柏原家」「市川医院」は持ち主が町にすべてを寄贈し、町が五千万ほどかけて修復、「交流館」として再生し遍路にも休憩所として解放しているとのこと 有り難い話です 現在も手入れが行き届き、高知の伝統的日本家屋を代表する建物といえます
そういう屋敷の座敷には写真のような屏風がさり気なく置いてありました 骨董品にはトンと疎い私ですが、何となく惹きつけられたので撮ったのがこの写真です この安田町、いつまでもこの建物を大事にして欲しいと思います 高知の田舎もなかなかステキです
内部リンク:歩き遍路の風景(5)
http://konotabi.com/HenroShikoku88/Scenery3/top.htm
外部リンク:安田時間
http://www.yasudajikan.com/kankorb.html
古代百済王国の扶余は素敵 ― 2011年11月24日 20時23分59秒
長年行きたかった朝鮮三国時代の百済の地、扶余(プヨ)に行って来た 韓国は四回目で、最初は下関から関釜フェリーで釜山上陸、観光も釜山だけだった 二回目は格安航空券でソウル近現代歴史の旅、三回目は格安ツアーでめぼしい観光地を回った
そういうほぼ一周に近いツアーでもソウル、慶州、安東、水原はあっても、扶余はなかった 今回は外国人のための「KR(韓国鉄)フリー10日間パス」を使ってやっと実現できた
百済(ペクチェ)は古代に新羅・唐に滅ばされた国、当然跡形はあまり残っていない それでも日本人には何となく親しみがある 学校時代、社会科で「白村江の戦い」を習った ここで百済遺民・倭の連合軍は大敗し、日本へ逃げ帰った その後日本は各地に山城を築き外国軍の進入に備えた
また百済・聖王の時代、博士や仏教、儒教などが渡来し日本に多大の影響を与えた また大陸系渡来人(帰化人)は主として朝鮮半島から来て近畿、大和地方で大きな政治、文化的影響を与えた そのため私たちには「百済」という国は何となく親しみがあるのである
さて本題である そういう古代に滅びた国だからほとんどはっきりした形としては残っていない ある観光書には「かなりの想像力を必要とする・・」とある 当然だ そういうなかでやや残っているのが、当時大寺であった「定林寺」である 大きな石塔が残っている 写真がそれである その他には出土品が多少あるが、それでも「定林寺祉」という名で呼ばれる
唐は百済を滅ぼした後、この仏教石塔に「唐が此処を占領した・・」などの記録を彫らしたという 何という傲慢さか 征服者の奢りである 似たような事例は歴史上多いが、ロマンの欠片もない それでもこの石塔、よくぞ千数百年も残っていてくれたものである おかげで歴史ファンは少々感慨にふけられるのである
内部リンク:
1 定林寺祉
http://konotabi.com/KoreaTour2011/PuyoTemple/top.htm
2 百済文化団地(復元百済国)
http://konotabi.com/KoreaTour2011/PuyoBunka/top.htm
3 百済歴史文化館
http://konotabi.com/KoreaTour2011/PuyoHistory/top.htm
そういうほぼ一周に近いツアーでもソウル、慶州、安東、水原はあっても、扶余はなかった 今回は外国人のための「KR(韓国鉄)フリー10日間パス」を使ってやっと実現できた
百済(ペクチェ)は古代に新羅・唐に滅ばされた国、当然跡形はあまり残っていない それでも日本人には何となく親しみがある 学校時代、社会科で「白村江の戦い」を習った ここで百済遺民・倭の連合軍は大敗し、日本へ逃げ帰った その後日本は各地に山城を築き外国軍の進入に備えた
また百済・聖王の時代、博士や仏教、儒教などが渡来し日本に多大の影響を与えた また大陸系渡来人(帰化人)は主として朝鮮半島から来て近畿、大和地方で大きな政治、文化的影響を与えた そのため私たちには「百済」という国は何となく親しみがあるのである
さて本題である そういう古代に滅びた国だからほとんどはっきりした形としては残っていない ある観光書には「かなりの想像力を必要とする・・」とある 当然だ そういうなかでやや残っているのが、当時大寺であった「定林寺」である 大きな石塔が残っている 写真がそれである その他には出土品が多少あるが、それでも「定林寺祉」という名で呼ばれる
唐は百済を滅ぼした後、この仏教石塔に「唐が此処を占領した・・」などの記録を彫らしたという 何という傲慢さか 征服者の奢りである 似たような事例は歴史上多いが、ロマンの欠片もない それでもこの石塔、よくぞ千数百年も残っていてくれたものである おかげで歴史ファンは少々感慨にふけられるのである
内部リンク:
1 定林寺祉
http://konotabi.com/KoreaTour2011/PuyoTemple/top.htm
2 百済文化団地(復元百済国)
http://konotabi.com/KoreaTour2011/PuyoBunka/top.htm
3 百済歴史文化館
http://konotabi.com/KoreaTour2011/PuyoHistory/top.htm
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