カナダ・スキーツアーでの話 ― 2016年12月31日 21時08分46秒
今月は「初滑り」ということでカナダ・スキーに行ってきた カナダといえども12月の半ばで積雪は多くはない 100~150cmというところであろうか コースの真ん中に木の小枝が出てはいたが、滑るのに支障はなかった まあシーズン初めとしては満足であった
そういうツアー仲間の中に私より少々年上の方がおられた 私同様、単独参加なのでお話しすることが多かった
私:ウチはカミさんが「バンフは寒いし、ホテルからスキー場が遠いから行きたくない」といって来ませんでした お宅も同じですか?
彼:いや、ウチはカミさんがいないんです
私:残念ですね ご病気か何かで・・?
彼:いや、スキー場で死にました
スキー場での死は事故死に通じる
とんでもないことを訊いてしまった・・と後悔した
彼:私は山を歩くのですが、スキーは上手くはなかったのです
カミさんはスキーが上手で私が彼女に習っていたのです 国内のあるスキー場で滑っていたら、若いスキー選手の卵がぶつかってきたのです 彼女は吹っ飛びました 救急も呼びましたが、頭を打ったまま意識が戻らず15分後に亡くなりました・・
彼は突然、愛する妻の死を目の当たりにしてしまったのだ
私:すみません 辛いことを思い出させてしまって・・・
長い間落ち込んでしまったのでは・・?
彼:亡くなってから3年経ちますが、わたしもかなり長く落ち込んで無気力でした しばらくはスキーも止めていました 何とか最近やっと前を向いていますが、ウチの子どもはまだ立ち直れていません
私:それでもスキーツアーに参加されたのですね
彼:カミさんが生きていたら、一緒に滑っていたかと思って参加しました
彼女もそれを願っていると思います・・
私:奥さんの写真が胸に入っているのですか?
彼:いえ、背中のバッグに位牌が入っています 一緒に滑っています
聞くもつらい話であった 奥様のご冥福を祈らずにはいられなかった
そういうツアー仲間の中に私より少々年上の方がおられた 私同様、単独参加なのでお話しすることが多かった
私:ウチはカミさんが「バンフは寒いし、ホテルからスキー場が遠いから行きたくない」といって来ませんでした お宅も同じですか?
彼:いや、ウチはカミさんがいないんです
私:残念ですね ご病気か何かで・・?
彼:いや、スキー場で死にました
スキー場での死は事故死に通じる
とんでもないことを訊いてしまった・・と後悔した
彼:私は山を歩くのですが、スキーは上手くはなかったのです
カミさんはスキーが上手で私が彼女に習っていたのです 国内のあるスキー場で滑っていたら、若いスキー選手の卵がぶつかってきたのです 彼女は吹っ飛びました 救急も呼びましたが、頭を打ったまま意識が戻らず15分後に亡くなりました・・
彼は突然、愛する妻の死を目の当たりにしてしまったのだ
私:すみません 辛いことを思い出させてしまって・・・
長い間落ち込んでしまったのでは・・?
彼:亡くなってから3年経ちますが、わたしもかなり長く落ち込んで無気力でした しばらくはスキーも止めていました 何とか最近やっと前を向いていますが、ウチの子どもはまだ立ち直れていません
私:それでもスキーツアーに参加されたのですね
彼:カミさんが生きていたら、一緒に滑っていたかと思って参加しました
彼女もそれを願っていると思います・・
私:奥さんの写真が胸に入っているのですか?
彼:いえ、背中のバッグに位牌が入っています 一緒に滑っています
聞くもつらい話であった 奥様のご冥福を祈らずにはいられなかった
幼いルイ17世の心臓 ― 2014年06月16日 18時45分25秒
ここはパリ郊外の町サン・ドニの「サン・ドニ大聖堂」 数人の例外を除いて、ほとんどのフランス国王が眠る墓所である 最初の墓はフランク王国時代の物である 学校時代に習ったあの「フランク王国」である
最後の時代はもちろんフランス革命で死刑にされたルイ16世と王妃マリー・アントワネット 革命後5年も経たずにパリ・コンコルド広場でギロティンによって公開処刑された このあたりまでは私たちも学校時代に習った
ところが余程詳しい授業でなければ、二人の子「王太子」であったルイ17世に触れることないだろう 彼は父母の処刑後、悪意ある人物に預けられたが、幽閉虐待され続けた 当時は王室の者は「国民の敵」という風潮だった これはロシア革命後のロマノフ王家に対するボルシェヴィキの仕打ちと似ている
その仕打ちのあげく、病に罹りわずか10歳で病死した 当時の肖像を見ると眉目秀麗、理知的で賢そうな顔立ちである この少年が無惨な死にかたをしたかと思うとなにか悲しくなる
さて写真の物だが、そのルイ17世の乾いた心臓が当聖堂地下の壁にはめ込まれている 彼の死後、検死の医師が密かに心臓を持ちだして、自宅でブランディーを塗り保存していた それが乾燥しカチカチになった その物である
フランスブルボン王朝が国民に為したことは歴史で明らかである だが子どもには何の責任もない 虐待をし続けて「殺してしまう」こともない 革命の過ち、行き過ぎといっても、あまりにも悲しすぎる 詳しくお知りでない方で歴史好きの方には、下にリンクがあるのでお読みいただきたい
内部リンク:歴代フランス国王の眠るサン・ドニ大聖堂
http://konotabi.com/FranceDrive2014/St-Denis/top.html#louis17
最後の時代はもちろんフランス革命で死刑にされたルイ16世と王妃マリー・アントワネット 革命後5年も経たずにパリ・コンコルド広場でギロティンによって公開処刑された このあたりまでは私たちも学校時代に習った
ところが余程詳しい授業でなければ、二人の子「王太子」であったルイ17世に触れることないだろう 彼は父母の処刑後、悪意ある人物に預けられたが、幽閉虐待され続けた 当時は王室の者は「国民の敵」という風潮だった これはロシア革命後のロマノフ王家に対するボルシェヴィキの仕打ちと似ている
その仕打ちのあげく、病に罹りわずか10歳で病死した 当時の肖像を見ると眉目秀麗、理知的で賢そうな顔立ちである この少年が無惨な死にかたをしたかと思うとなにか悲しくなる
さて写真の物だが、そのルイ17世の乾いた心臓が当聖堂地下の壁にはめ込まれている 彼の死後、検死の医師が密かに心臓を持ちだして、自宅でブランディーを塗り保存していた それが乾燥しカチカチになった その物である
フランスブルボン王朝が国民に為したことは歴史で明らかである だが子どもには何の責任もない 虐待をし続けて「殺してしまう」こともない 革命の過ち、行き過ぎといっても、あまりにも悲しすぎる 詳しくお知りでない方で歴史好きの方には、下にリンクがあるのでお読みいただきたい
内部リンク:歴代フランス国王の眠るサン・ドニ大聖堂
http://konotabi.com/FranceDrive2014/St-Denis/top.html#louis17
ヴァティカンの聖人・フランスの守護神ジャンヌ・ダルク ― 2014年06月14日 22時14分44秒
写真はパリのルーブル美術館近くにあるジャンヌ・ダルクの像である 金色に塗られた像は甲冑を身にまとい意気揚々と前を向いている ロアール川流域のオルレアンの町にも彼女が滞在した家とともに大きな騎馬像が町中にあった
世界に多くある銅像はほとんどが男性で、女性はキュリー夫人、マリア・テレサなどわずかで、我が国でも山内一豊の妻など少数である しかもフランスではこの「オルレアンの少女」ジャンヌ・ダルク像や絵画は数え切れないほど存在する 特にノルマンディー、パリを含むイルドフランスの北フランス一帯ではどこの聖堂、教会にも彼女の像がある
私たち日本人のほとんどは「フランスの片田舎ドン・レミ村で生まれた娘がイギリスに攻められたフランスを救うため国王と会い、軍を率い活躍したが、捕らえられて売り渡され、宗教裁判にかけられたあげく、火炙りの刑に処せられた」くらいしか知らないことが多い
この国を旅行すると分かるが、彼女はただの「愛国少女」ではなかった まず各地の街角に騎馬像があったり、教会内には彼女の像、彼女の絵や彼女のチャペル(礼拝堂)がまずある あの世界遺産パリのノートルダム大聖堂にも大きな祈る像がある
それらの説明では「イギリスとの百年戦争で我がフランスを救った英雄、フランスだけでなくカトリックの大聖人、フランスの守護神の一人」と最大級の賛辞、表現をしている それほどフランスの偉人、大恩人なのである しかし今回の旅で多くのフランス人にあったが、彼らの話を聞くのを忘れていた
世界に多くある銅像はほとんどが男性で、女性はキュリー夫人、マリア・テレサなどわずかで、我が国でも山内一豊の妻など少数である しかもフランスではこの「オルレアンの少女」ジャンヌ・ダルク像や絵画は数え切れないほど存在する 特にノルマンディー、パリを含むイルドフランスの北フランス一帯ではどこの聖堂、教会にも彼女の像がある
私たち日本人のほとんどは「フランスの片田舎ドン・レミ村で生まれた娘がイギリスに攻められたフランスを救うため国王と会い、軍を率い活躍したが、捕らえられて売り渡され、宗教裁判にかけられたあげく、火炙りの刑に処せられた」くらいしか知らないことが多い
この国を旅行すると分かるが、彼女はただの「愛国少女」ではなかった まず各地の街角に騎馬像があったり、教会内には彼女の像、彼女の絵や彼女のチャペル(礼拝堂)がまずある あの世界遺産パリのノートルダム大聖堂にも大きな祈る像がある
それらの説明では「イギリスとの百年戦争で我がフランスを救った英雄、フランスだけでなくカトリックの大聖人、フランスの守護神の一人」と最大級の賛辞、表現をしている それほどフランスの偉人、大恩人なのである しかし今回の旅で多くのフランス人にあったが、彼らの話を聞くのを忘れていた
信州・八方スキー場のボーダーたち ― 2013年02月16日 18時17分47秒
ここは長野県の八方尾根スキー場、冬季オリンピックも行われた「名門スキー場」である 私は最近毎年ここで滑ることにしている ここはすべての面でバランスのよいスキー場だからである
ところが今年も写真のようなボーダーたちを見かけてしまった 場所は「うさぎ平」下のパノラマコースである 一枚バーンの良いコースである ところがリフトを降りた途端、嫌なものを見てしまった
ボーダーたちがリフト降り場で真横に並んで座っていた こういう場所は普通空けて置いて、リフトを降りる者が滑り始める場所である 「通り道です ここでは立ち止まらずあけましょう」などと掲示が出たりする場所である 写真でも困ったスキーヤー(奥)が彼らを避けようとしているのがわかる
一般のスキーヤーでもよほどの初心者か不慣れな外国人しか立ち止まらない場所である ところが彼らはまるで「貸し切り」のようにのんびりお喋りをしている 他人に迷惑を掛けていることなぞまるで考えていない
我が国ではスキーヤーよりもボーダーの歴史ははるかに浅い だから指導者もいなくて未熟で、他人のことなど気に掛ける事もなかったという事実はあった しかしボーダーの歴史もすでに長くなった昨今である
見ているとボーダーは若い人が多く、学生かフリーターの感じである 社会性が足りないのも無理がないのかもしれない それでもそろそろ「オトナ」になって欲しい時期ではある
ところが今年も写真のようなボーダーたちを見かけてしまった 場所は「うさぎ平」下のパノラマコースである 一枚バーンの良いコースである ところがリフトを降りた途端、嫌なものを見てしまった
ボーダーたちがリフト降り場で真横に並んで座っていた こういう場所は普通空けて置いて、リフトを降りる者が滑り始める場所である 「通り道です ここでは立ち止まらずあけましょう」などと掲示が出たりする場所である 写真でも困ったスキーヤー(奥)が彼らを避けようとしているのがわかる
一般のスキーヤーでもよほどの初心者か不慣れな外国人しか立ち止まらない場所である ところが彼らはまるで「貸し切り」のようにのんびりお喋りをしている 他人に迷惑を掛けていることなぞまるで考えていない
我が国ではスキーヤーよりもボーダーの歴史ははるかに浅い だから指導者もいなくて未熟で、他人のことなど気に掛ける事もなかったという事実はあった しかしボーダーの歴史もすでに長くなった昨今である
見ているとボーダーは若い人が多く、学生かフリーターの感じである 社会性が足りないのも無理がないのかもしれない それでもそろそろ「オトナ」になって欲しい時期ではある
四国歩き遍路の出会い ― 2012年12月29日 18時36分08秒
以前にも書いたが、私たちの「四国歩き遍路」もすでに第62番札所がすみ、延べ歩き距離873kmを越えて終盤に近づいた それでも後26ヵ寺と最後の高野山詣でが残っている 真冬の歩きは辛いので、再開は来春で来年中には結願(けちがん)すると思う
ここまでの思い出は、何と言っても一番は苦しかった風雨の中の歩きであったが、二番目は善意ある人々との出会いである 四国の方々は優しく、「お接待」してくださることが多かった 畑で作業しているお婆ちゃんは、「重いけどこのミカン持って行きなさい」と木からもいでたくさん下さった 通勤途上の年輩サラリーマンはわざわざ自転車から下りて鞄からミカンとお菓子を下さった また優しく声をかけてくださる人もいた
そういうなかで忘れられないのは、ある三十代と思しき男性のことである 愛媛県大洲市にある道の駅「ポケットパーク札掛」の休憩所で休んでいた私たちの所に駆け寄ってきた人がいた 「あの~私にお接待させて下さい」 私たちもこういうのは初めてだったので、思わず「はっ?」「私も以前四国を遍路しました これはお接待です」と言いながら500円玉を渡して下さった
彼は車での配達をしていた途中らしく、仕事着を着たままお接待をして下さったのである 遍路していてお金を貰うのはこれが初めてだったが、断る理由もないので有り難く受け取った お礼のお札はもちろん渡した 私たちは「どうしようか?」「次のお寺でお賽銭にしたら・・」と話し合った
さて私たちはそれから歩きに歩き松山市に入っていた 松山市も遍路のお寺が多くセッセセッセと回っていた その途中に番外札所があった 私たちは番外札所まで回る事にはしていなかったが、道脇だったし「四国遍路の祖・衛門三郎縁の寺」ということで寄ってみた
少し逸れるが、そのむかし、衛門三郎は空海(後の弘法大師)が托鉢をして四国を回っていた時、冷たくあしらって追い返した人である その後子どもが続々死んで自分の非を悟った衛門三郎は四国中を空海を追い求めて歩き回ったという これが遍路の始まりということになっている
さて、その寺前には三十代の男性とその母親らしき五、六十代の女性がいた ふと気が付くと男性がじっとこちらを見ている そしてこちらにやってきてこう言った 「あの~確か岡山から来られた方ですよね~ 覚えていらっしゃいますか?」「はっ?」「大洲市で接待した者です」「あ~ああの方ですか その節はどうも・・・・」
彼が私たちに「お接待」したのは50km以上離れた場所、それから何日も経っている しかもたまたま立ち寄った寺である 母親らしい人はこう言った 「あなたがお接待した人たちも多分もうこの辺に来ているね・・と話していたばかりなんですよ」 彼は仕事が休みの日だという 何という偶然であろうか?! 私たちは重ね重ねお礼を言って別れた 縁である
こういう人たちとの縁で、我らが先輩歩き遍路者は「お四国病」に成っているに違いない
ここまでの思い出は、何と言っても一番は苦しかった風雨の中の歩きであったが、二番目は善意ある人々との出会いである 四国の方々は優しく、「お接待」してくださることが多かった 畑で作業しているお婆ちゃんは、「重いけどこのミカン持って行きなさい」と木からもいでたくさん下さった 通勤途上の年輩サラリーマンはわざわざ自転車から下りて鞄からミカンとお菓子を下さった また優しく声をかけてくださる人もいた
そういうなかで忘れられないのは、ある三十代と思しき男性のことである 愛媛県大洲市にある道の駅「ポケットパーク札掛」の休憩所で休んでいた私たちの所に駆け寄ってきた人がいた 「あの~私にお接待させて下さい」 私たちもこういうのは初めてだったので、思わず「はっ?」「私も以前四国を遍路しました これはお接待です」と言いながら500円玉を渡して下さった
彼は車での配達をしていた途中らしく、仕事着を着たままお接待をして下さったのである 遍路していてお金を貰うのはこれが初めてだったが、断る理由もないので有り難く受け取った お礼のお札はもちろん渡した 私たちは「どうしようか?」「次のお寺でお賽銭にしたら・・」と話し合った
さて私たちはそれから歩きに歩き松山市に入っていた 松山市も遍路のお寺が多くセッセセッセと回っていた その途中に番外札所があった 私たちは番外札所まで回る事にはしていなかったが、道脇だったし「四国遍路の祖・衛門三郎縁の寺」ということで寄ってみた
少し逸れるが、そのむかし、衛門三郎は空海(後の弘法大師)が托鉢をして四国を回っていた時、冷たくあしらって追い返した人である その後子どもが続々死んで自分の非を悟った衛門三郎は四国中を空海を追い求めて歩き回ったという これが遍路の始まりということになっている
さて、その寺前には三十代の男性とその母親らしき五、六十代の女性がいた ふと気が付くと男性がじっとこちらを見ている そしてこちらにやってきてこう言った 「あの~確か岡山から来られた方ですよね~ 覚えていらっしゃいますか?」「はっ?」「大洲市で接待した者です」「あ~ああの方ですか その節はどうも・・・・」
彼が私たちに「お接待」したのは50km以上離れた場所、それから何日も経っている しかもたまたま立ち寄った寺である 母親らしい人はこう言った 「あなたがお接待した人たちも多分もうこの辺に来ているね・・と話していたばかりなんですよ」 彼は仕事が休みの日だという 何という偶然であろうか?! 私たちは重ね重ねお礼を言って別れた 縁である
こういう人たちとの縁で、我らが先輩歩き遍路者は「お四国病」に成っているに違いない
フランス人お遍路・エレーヌさん ― 2012年05月02日 07時04分20秒
「ココニオニギリハナイデスカー?」 白いお遍路装束の女性が尋ねた 場所は高知県の「ヘンロ小屋佐賀第13号」があるレストハウスのカウンターである 幾分奇妙なイントネーションに思わず顔を見たら白人女性であった その瞬間私は「フランス人かな?」と思った
今回の遍路でも外国人にあった どうも最近は外国人のお遍路が増えている感じである 前回は歩いている最中に早足の白人男性が追い抜く際に、「コレドウゾ」と私たちに飴を渡してさっさと行ってしまった
その女性が私たちがいた敷地内の「ヘンロ小屋」に戻ってきた 疲れたような不満なような顔をしている 「どうしましたか?」と尋ねると、「ココニハスナックガアリマセン レストランシカアリマセン」 どうやらお昼を抜く雰囲気だ
そこで私たちは持っていたスナック・バーを一袋渡した 彼女は一瞬嬉しそうな顔をして話し出した フランス人だという 彼女の日本語はアクセントはあるものの難しい単語も使えている 以前12年間日本にいたという 今はEUの仕事をしていると言った
私が「長い休みが取れたのですか?」と訊くと、「三週間取れました それで日本に来ました」 フランス人が「ヴァカンス」といって夏に長い休みを取る習慣があるのは日本でもよく知られている だがそれは一般的な話で、年中通して長い休みが取れるということらしい
彼女はこうも言った もっと若い時代は働き抜いた その結果、体を壊して入院もした ひと歳いった今では少し楽なポストを選んで働いている・・と 自分の生き方を通しているらしい
それは彼女の巡礼の旅でわかる 西洋キリスト教世界で有名なスペインの「サンチアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」を始めた フランス各都市から歩いてスペインの町を目指すのだ だが彼女は「まだ途中までしか行っていない」と言った
そういう中で日本の大災害を知った 以前から日本の巡礼も知っていたので、この際「心を込めて日本のひとのために」巡礼をしようと思ったという そういう話には私はヨワイ ここまで思ってくれる外国人がいるのである
休憩所の話が長くなったが彼女の話はまだつづく 彼女はインテリらしく言いたいことがたくさんあるようだ 日本語の表現が難しくなると英語やらフランス語が出てくる フランス語は母語だが他に英語、オランダ語、スペイン語、日本語他ができるらしい
また大学で経済学を学んだ後、哲学や宗教学も勉強したらしい 時々仏教の難解な用語やお経の言葉が出てくる 普通の日本人以上に詳しいのは驚きだ 日本語はパリの外国語大学で習ったという 今回の訪問もただの「気まぐれ」で日本に来た人とは違う 思い入れがある
しばらくは三人で一緒に歩いたが、驚いたことになんと彼女は足が速い 写真を撮りながらどんどん歩く 立派な藤花を見た後、「お先にどうぞ」と行って貰った 妻の足では追いつけないから・・ エレーヌさん、日本を愛してくれて有り難う! どうぞご無事な旅を! Au Revoir !
今回の遍路でも外国人にあった どうも最近は外国人のお遍路が増えている感じである 前回は歩いている最中に早足の白人男性が追い抜く際に、「コレドウゾ」と私たちに飴を渡してさっさと行ってしまった
その女性が私たちがいた敷地内の「ヘンロ小屋」に戻ってきた 疲れたような不満なような顔をしている 「どうしましたか?」と尋ねると、「ココニハスナックガアリマセン レストランシカアリマセン」 どうやらお昼を抜く雰囲気だ
そこで私たちは持っていたスナック・バーを一袋渡した 彼女は一瞬嬉しそうな顔をして話し出した フランス人だという 彼女の日本語はアクセントはあるものの難しい単語も使えている 以前12年間日本にいたという 今はEUの仕事をしていると言った
私が「長い休みが取れたのですか?」と訊くと、「三週間取れました それで日本に来ました」 フランス人が「ヴァカンス」といって夏に長い休みを取る習慣があるのは日本でもよく知られている だがそれは一般的な話で、年中通して長い休みが取れるということらしい
彼女はこうも言った もっと若い時代は働き抜いた その結果、体を壊して入院もした ひと歳いった今では少し楽なポストを選んで働いている・・と 自分の生き方を通しているらしい
それは彼女の巡礼の旅でわかる 西洋キリスト教世界で有名なスペインの「サンチアゴ・デ・コンポステーラ巡礼」を始めた フランス各都市から歩いてスペインの町を目指すのだ だが彼女は「まだ途中までしか行っていない」と言った
そういう中で日本の大災害を知った 以前から日本の巡礼も知っていたので、この際「心を込めて日本のひとのために」巡礼をしようと思ったという そういう話には私はヨワイ ここまで思ってくれる外国人がいるのである
休憩所の話が長くなったが彼女の話はまだつづく 彼女はインテリらしく言いたいことがたくさんあるようだ 日本語の表現が難しくなると英語やらフランス語が出てくる フランス語は母語だが他に英語、オランダ語、スペイン語、日本語他ができるらしい
また大学で経済学を学んだ後、哲学や宗教学も勉強したらしい 時々仏教の難解な用語やお経の言葉が出てくる 普通の日本人以上に詳しいのは驚きだ 日本語はパリの外国語大学で習ったという 今回の訪問もただの「気まぐれ」で日本に来た人とは違う 思い入れがある
しばらくは三人で一緒に歩いたが、驚いたことになんと彼女は足が速い 写真を撮りながらどんどん歩く 立派な藤花を見た後、「お先にどうぞ」と行って貰った 妻の足では追いつけないから・・ エレーヌさん、日本を愛してくれて有り難う! どうぞご無事な旅を! Au Revoir !
「生活楽しむ男性」に大変嬉しいニュース!! ― 2009年10月05日 17時19分10秒
「遊び人」ともいわれている私(サイト・オーナー)には嬉しく、心強いニュースがあった それは今日(10/5)付けの「ヨミウリオンライン」である 以下一部を引用する・・・・・・
「生活楽しむ男性」脳卒中や狭心症なりにくい
生活を楽しむ意識の高い男性ほど脳卒中や狭心症などを発症する危険性が低いことが、厚生労働省の研究班の調査でわかった。・・略・・
琉球大学の白井こころ准教授(公衆衛生)らは、調査対象のうち、循環器疾患やがんの既往症がない約9万人のデータを分析。アンケートで「生活を楽しんでいますか?」と尋ね、楽しむ意識を高・中・低に3分類した。・・略・・
その結果、生活を楽しむ意識が低い男性は、高い男性に比べ脳卒中を発症する危険性が1・22倍、死亡率は1・75倍高かった。狭心症、心筋梗塞(こうそく)を発症する危険性は1・28倍で、死亡率は1・91倍だった。
白井准教授は「生活を楽しむ前向きな人は、健康的な生活習慣を取り入れるのにも積極的で、ストレスへの対応が上手なため、脳卒中などになりにくいのだろう。男性は女性に比べてストレスに弱い傾向があり、効果がはっきり出たと考えられる」と分析している。
(2009年10月5日12時28分 読売新聞)
こう見ると、私のような「自主的早期退職者」で「趣味に精一杯生きている」者は上の条件を十分すぎるほど満たしている・・とはあまりにも「我田引水」すぎるだろうか?趣味とは「スキー、旅行、ドライヴ、写真、HP作り」である
上に付け加えて、私は退職後は「好きなことだけする」、「合わない人とは無理につきあわない」、「フィットネスをできるだけする」、「体に悪そうなもの(肉類・ラーメン等)はできるだけ食べない」、「魚、サプリ、海藻、キノコ、ヨーグルトをできるだけ摂る」と決めている
しかし妻を含めて他人様からは、「自己中」「ワガママ」「金食い虫」など非難、悪口が聞こえてきている 少しは肩身が狭かった しかし「白井先生」のお陰で、少しばかりは意を強くしている ウン、やはりこれで良かったのだな・・・な~んちゃって!
元(引用)の記事は:
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20091005-OYT1T00515.htm?from=main4
「生活楽しむ男性」脳卒中や狭心症なりにくい
生活を楽しむ意識の高い男性ほど脳卒中や狭心症などを発症する危険性が低いことが、厚生労働省の研究班の調査でわかった。・・略・・
琉球大学の白井こころ准教授(公衆衛生)らは、調査対象のうち、循環器疾患やがんの既往症がない約9万人のデータを分析。アンケートで「生活を楽しんでいますか?」と尋ね、楽しむ意識を高・中・低に3分類した。・・略・・
その結果、生活を楽しむ意識が低い男性は、高い男性に比べ脳卒中を発症する危険性が1・22倍、死亡率は1・75倍高かった。狭心症、心筋梗塞(こうそく)を発症する危険性は1・28倍で、死亡率は1・91倍だった。
白井准教授は「生活を楽しむ前向きな人は、健康的な生活習慣を取り入れるのにも積極的で、ストレスへの対応が上手なため、脳卒中などになりにくいのだろう。男性は女性に比べてストレスに弱い傾向があり、効果がはっきり出たと考えられる」と分析している。
(2009年10月5日12時28分 読売新聞)
こう見ると、私のような「自主的早期退職者」で「趣味に精一杯生きている」者は上の条件を十分すぎるほど満たしている・・とはあまりにも「我田引水」すぎるだろうか?趣味とは「スキー、旅行、ドライヴ、写真、HP作り」である
上に付け加えて、私は退職後は「好きなことだけする」、「合わない人とは無理につきあわない」、「フィットネスをできるだけする」、「体に悪そうなもの(肉類・ラーメン等)はできるだけ食べない」、「魚、サプリ、海藻、キノコ、ヨーグルトをできるだけ摂る」と決めている
しかし妻を含めて他人様からは、「自己中」「ワガママ」「金食い虫」など非難、悪口が聞こえてきている 少しは肩身が狭かった しかし「白井先生」のお陰で、少しばかりは意を強くしている ウン、やはりこれで良かったのだな・・・な~んちゃって!
元(引用)の記事は:
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20091005-OYT1T00515.htm?from=main4
PPMのマリー・トラバースさん、安らかに眠れ ― 2009年09月19日 00時14分07秒
今日、あの「PPM」のマリー・トラバースさんの訃報に接した 享年72歳 死因は白血病だそうだ ピーター・ポールアンドマリー(PPM)といえば1960年代から70年代にかけて一世を風靡した米フォークソング・グループである 「パフ」「花はどこへ行った」「悲惨な戦争」「レモントゥリー」「天使のハンマー」「500マイル」「虹と共に消えた恋」「風に吹かれて」「わが祖国」など多くの名曲、ヒット曲を出し、ヒットチャートのトップを独占し続けた
日本でも多くのファンがいたが、中心は十代二十代の若者であった 彼らはただ聞くだけでなく、一緒に歌ったりPPMのようにギターを弾いてハモらせて楽しんだ かく言う私もその一人であった PPMの曲は覚えやすいメロディーだけでなく、彼らの美しいハーモニー、難解ではない素敵なギター、そしてたった一人の女性ヴォーカルであったマリーの声は一度聞いたら忘れられなかった
歌詞は今の日本のヒット曲のような「ただの若者の歌」ではなく、「反戦」「平和」の思想や時としては「反体制」、「反原発」で「人の生き方」を考えることもバックボーンに大きく流れていた ちょうどヴェトナム戦争がひろがり、そして行き詰まり、アメリカ国民のなかにも息子たちを失ったひとびとのことが報道されていた時代である そういう空気のなかで、PPMを始めとしてボブ・ディラン、ジョーン・バエズなどがアメリカの若者の心を捕らえ、大きなうねりとなっていた
PPMの曲はどれもただ「反戦」を声高に叫ぶのではなく、表面は若者の恋や愛をテーマにしながら、人間の心に「人間同士が殺し合う不合理さや理不尽さ」を訴えていた 「自分も死にたくない、愛する人にも死んで欲しくない、敵も殺してたくない」と伝えた 「国家が国家のため行う戦争」に反対するプロテスト・ソングであった
そういう意味で、当時またはその後に続いた日本の「フォークソング・ブーム」とはやや性格が異なっていた 日本では「ブルーシャトー」「若者たち」のように、歌詞が個人の心の問題や個人間の愛や夢が中心で、社会・国家のあり方までは言及していなかった 米ではヴェトナム戦争で仲間や知り合いが死んでしまう環境だからこそ、前述のような機運が高まったのであろう
私たち(ベイビー・ブーマー)の学生時代も少し前から「安保闘争」や当時では「日韓条約」、「東大紛争」などがあり、当時の学生意識も今とは違って政治的に高いものがあった 「私たちが社会を変える」「世の矛盾を問う」という問題意識や連帯意識があった そういうなかで、アメリカのプロテストソングや反戦フォークソングは日本の若者にもかなりの影響を与えた
しかし、こういうアメリカの学生・若者の反戦運動も弾圧されたり、退廃的なヒッピーなどが派生し、日本では「学園闘争」が武闘や仲間割れなどで挫折し、消滅していった 学園を巣立った若者たちは、「ふつうの社会人」になって高度経済成長時代を支えていった そういう「古い懐かしい」時代のメモリーの一つが「フォークソング」や「うたごえ」であった いずれにしてもあの「天使の歌声」、マリー・トラバースさんの冥福を祈りたい そして"Viva PPM !"
日本でも多くのファンがいたが、中心は十代二十代の若者であった 彼らはただ聞くだけでなく、一緒に歌ったりPPMのようにギターを弾いてハモらせて楽しんだ かく言う私もその一人であった PPMの曲は覚えやすいメロディーだけでなく、彼らの美しいハーモニー、難解ではない素敵なギター、そしてたった一人の女性ヴォーカルであったマリーの声は一度聞いたら忘れられなかった
歌詞は今の日本のヒット曲のような「ただの若者の歌」ではなく、「反戦」「平和」の思想や時としては「反体制」、「反原発」で「人の生き方」を考えることもバックボーンに大きく流れていた ちょうどヴェトナム戦争がひろがり、そして行き詰まり、アメリカ国民のなかにも息子たちを失ったひとびとのことが報道されていた時代である そういう空気のなかで、PPMを始めとしてボブ・ディラン、ジョーン・バエズなどがアメリカの若者の心を捕らえ、大きなうねりとなっていた
PPMの曲はどれもただ「反戦」を声高に叫ぶのではなく、表面は若者の恋や愛をテーマにしながら、人間の心に「人間同士が殺し合う不合理さや理不尽さ」を訴えていた 「自分も死にたくない、愛する人にも死んで欲しくない、敵も殺してたくない」と伝えた 「国家が国家のため行う戦争」に反対するプロテスト・ソングであった
そういう意味で、当時またはその後に続いた日本の「フォークソング・ブーム」とはやや性格が異なっていた 日本では「ブルーシャトー」「若者たち」のように、歌詞が個人の心の問題や個人間の愛や夢が中心で、社会・国家のあり方までは言及していなかった 米ではヴェトナム戦争で仲間や知り合いが死んでしまう環境だからこそ、前述のような機運が高まったのであろう
私たち(ベイビー・ブーマー)の学生時代も少し前から「安保闘争」や当時では「日韓条約」、「東大紛争」などがあり、当時の学生意識も今とは違って政治的に高いものがあった 「私たちが社会を変える」「世の矛盾を問う」という問題意識や連帯意識があった そういうなかで、アメリカのプロテストソングや反戦フォークソングは日本の若者にもかなりの影響を与えた
しかし、こういうアメリカの学生・若者の反戦運動も弾圧されたり、退廃的なヒッピーなどが派生し、日本では「学園闘争」が武闘や仲間割れなどで挫折し、消滅していった 学園を巣立った若者たちは、「ふつうの社会人」になって高度経済成長時代を支えていった そういう「古い懐かしい」時代のメモリーの一つが「フォークソング」や「うたごえ」であった いずれにしてもあの「天使の歌声」、マリー・トラバースさんの冥福を祈りたい そして"Viva PPM !"
チョーアナログな喫茶店 ― 2009年09月16日 23時38分56秒
岡山県の県北、津山市の「できたての新しい喫茶店」に行ってきた-と書いても特段新鮮さはない 「店内全面禁煙、駐車場なし」ということ以外は特に変わったこともない店である しかしここのオーナー夫妻が私の長年の友人である
遡って今から40年ほど前、筆者が就職後数年して職場に入ってきた男がいた 彼とは独身同士の気安さもあって仲良くなり、勤務時間後はよく食べに行ったり、飲みに行った 彼の車で交替運転で東京まで行ったり、あちこちを観光して回った その彼も組合活動のなかで好きになった女性と結婚し、やがては親の住む津山に帰っていった
それから幾星霜、数年前彼から「早期退職した」という挨拶状が来た ここから先は「非常勤の勤務」だという そしてこの夏またも彼から葉書が来た 「長年夢として思い描いてきた喫茶店を開きました ぜひお越しください」と言う意が書かれていた 実家の母屋を改造して店にしたという 堅い職業をしていた彼がこれまた堅い職業だった奥様と柔らかい仕事の「喫茶店」を開いたことも驚いた
私たち「団塊の世代」は今や60代であるが、皆々元気である ホンの一部の物故者を除けば、「第二の人生何をやってやろうか?」という人たちばかりである 中学、高校の同窓会は盛んに開かれて旧交を温め直しているし、私も大学時代の友人と数年前から時々会っている
「人生わずか五十年」の時代ならもうすでに「好々爺」で孫と遊ぶのだろうが、今の六十代は「元気!元気!」である お金も少々あって時間がいっぱいある者たちである 海外旅行のリピーター、NPOを立ち上げて活動している者、ユネスコ・ユニセフなどでヴォランティアをしている者、友人とバンドを組んでがんばっている者、地域興しの中心者などなど毎日が忙しい人たちばかりである
こう考えると今までの職業とまったく関係ない「お仕事」を始めても、彼の言うように「長年の夢を実現した」だけのことである もっと言うと、「これをしなければ人生で後悔する」のであろう これも早期退職した私自身「これをしなければ後悔する」とばかりに大変よく旅に出かけ見聞をおおいに広めている そういう意味では、彼の心情は大いに理解できる
前置きが長くなったが、昨日その「彼の夢の店」に行った ドアを開けると、古い民家を上手に改造した落ち着いた店構えである 案の定「開店祝い」の花鉢が足の踏み場もないほど並んでいる 業者からの物はほとんど無い 彼が面倒を見た人たちや元同僚などからである 彼の人柄と人間関係の広さが伺われた
彼の店にはホットコーヒーは基本三種類、あとは紅茶、ジュースなどベーシックな物ばかり、軽食はサンドとトーストくらいでメニューは少ない 「食べ物を出すと儲かるらしい」というと、「儲からなくて良い」とさらっと言ってのける 「美味しいコーヒーを出し、客が喜んでくれ、話が弾めばよい」 そういう感じである
そのくせ豆や水にはこだわっている 豆もUCCとかアートとかキーとかいう大手の物ではなく、地元のブレンダーが作り上げたマイナーブランド、珈琲用水は濾過器を通したもので、お冷やの水は「大山の自然水」なのだという 「自然水」といっても、当然谷川の水ではない
また彼は気まぐれである 時々頼んでもいないコーヒーを少しだけ入れてくれ、「これどう?」と訊く また時としてオツマミが出たりスルメが出たりすることもある 「どういう場合に出るのか?」と訊くと、「その日の気分と相手による」というアバウトな答えである この「超アナログ」な経営姿勢がこの店の魅力である この「ホッとするような雰囲気」が彼の理想でもある こうしていても客が三々五々やってくる 帰るときはみんな優しい顔である
その店の名前というのが「珈琲・優しい時間」である 津山にお行きになる方は「どのくらいアナログか」覗いてみては如何?
「優しい時間」・・津山市吹屋町7tel 0868-22-4871
openhour10-18 定休日・木曜日
場所は「アルネ津山」そば
遡って今から40年ほど前、筆者が就職後数年して職場に入ってきた男がいた 彼とは独身同士の気安さもあって仲良くなり、勤務時間後はよく食べに行ったり、飲みに行った 彼の車で交替運転で東京まで行ったり、あちこちを観光して回った その彼も組合活動のなかで好きになった女性と結婚し、やがては親の住む津山に帰っていった
それから幾星霜、数年前彼から「早期退職した」という挨拶状が来た ここから先は「非常勤の勤務」だという そしてこの夏またも彼から葉書が来た 「長年夢として思い描いてきた喫茶店を開きました ぜひお越しください」と言う意が書かれていた 実家の母屋を改造して店にしたという 堅い職業をしていた彼がこれまた堅い職業だった奥様と柔らかい仕事の「喫茶店」を開いたことも驚いた
私たち「団塊の世代」は今や60代であるが、皆々元気である ホンの一部の物故者を除けば、「第二の人生何をやってやろうか?」という人たちばかりである 中学、高校の同窓会は盛んに開かれて旧交を温め直しているし、私も大学時代の友人と数年前から時々会っている
「人生わずか五十年」の時代ならもうすでに「好々爺」で孫と遊ぶのだろうが、今の六十代は「元気!元気!」である お金も少々あって時間がいっぱいある者たちである 海外旅行のリピーター、NPOを立ち上げて活動している者、ユネスコ・ユニセフなどでヴォランティアをしている者、友人とバンドを組んでがんばっている者、地域興しの中心者などなど毎日が忙しい人たちばかりである
こう考えると今までの職業とまったく関係ない「お仕事」を始めても、彼の言うように「長年の夢を実現した」だけのことである もっと言うと、「これをしなければ人生で後悔する」のであろう これも早期退職した私自身「これをしなければ後悔する」とばかりに大変よく旅に出かけ見聞をおおいに広めている そういう意味では、彼の心情は大いに理解できる
前置きが長くなったが、昨日その「彼の夢の店」に行った ドアを開けると、古い民家を上手に改造した落ち着いた店構えである 案の定「開店祝い」の花鉢が足の踏み場もないほど並んでいる 業者からの物はほとんど無い 彼が面倒を見た人たちや元同僚などからである 彼の人柄と人間関係の広さが伺われた
彼の店にはホットコーヒーは基本三種類、あとは紅茶、ジュースなどベーシックな物ばかり、軽食はサンドとトーストくらいでメニューは少ない 「食べ物を出すと儲かるらしい」というと、「儲からなくて良い」とさらっと言ってのける 「美味しいコーヒーを出し、客が喜んでくれ、話が弾めばよい」 そういう感じである
そのくせ豆や水にはこだわっている 豆もUCCとかアートとかキーとかいう大手の物ではなく、地元のブレンダーが作り上げたマイナーブランド、珈琲用水は濾過器を通したもので、お冷やの水は「大山の自然水」なのだという 「自然水」といっても、当然谷川の水ではない
また彼は気まぐれである 時々頼んでもいないコーヒーを少しだけ入れてくれ、「これどう?」と訊く また時としてオツマミが出たりスルメが出たりすることもある 「どういう場合に出るのか?」と訊くと、「その日の気分と相手による」というアバウトな答えである この「超アナログ」な経営姿勢がこの店の魅力である この「ホッとするような雰囲気」が彼の理想でもある こうしていても客が三々五々やってくる 帰るときはみんな優しい顔である
その店の名前というのが「珈琲・優しい時間」である 津山にお行きになる方は「どのくらいアナログか」覗いてみては如何?
「優しい時間」・・津山市吹屋町7tel 0868-22-4871
openhour10-18 定休日・木曜日
場所は「アルネ津山」そば
記憶に残る作曲家・モーリス=ジャールの死を悼む ― 2009年03月31日 13時51分15秒
アカデミー賞の映画「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバゴ」といえば、その画面はもちろんのこと、その音楽のすばらしさが心に残ったものであった 両者がアウフヘーベン(止揚)しあって素晴らしい作品になった
私たちの世代にとって、映画は青春時代の一コマであり思い出でもあったものである 高校時代に補習をさぼって見に行ったり、カノジョと一緒に見たり、ヒロインに一目惚れして映画館に通ったのである 「ロレンス・・」も「ジバゴ」もその一つであった それらの映画にもし「サウンドトラックの音楽」がなかったら、あそこまで感動し心に残らなかったに違いない
モーリス・ジャール(1924ー2009)は名前で分かるようにフランス人である しかし3月29日、アメリカロス・アンジェルスで84歳で亡くなった 彼の主な活動はハリウッドであったからである 1960年代に米国に移り、計150以上の映画音楽を生み出した 他の主な曲には「インドへの道」「史上最大の作戦」「ゴースト ニューヨークの幻」などがある 下にリンクしたWikipediaの作品集一覧をみると、ほとんどの人が見たことがある映画が載っている
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB
いずれにしても、一世を風靡したこの音楽の偉人の冥福を祈らずにはいられない Amen !
私たちの世代にとって、映画は青春時代の一コマであり思い出でもあったものである 高校時代に補習をさぼって見に行ったり、カノジョと一緒に見たり、ヒロインに一目惚れして映画館に通ったのである 「ロレンス・・」も「ジバゴ」もその一つであった それらの映画にもし「サウンドトラックの音楽」がなかったら、あそこまで感動し心に残らなかったに違いない
モーリス・ジャール(1924ー2009)は名前で分かるようにフランス人である しかし3月29日、アメリカロス・アンジェルスで84歳で亡くなった 彼の主な活動はハリウッドであったからである 1960年代に米国に移り、計150以上の映画音楽を生み出した 他の主な曲には「インドへの道」「史上最大の作戦」「ゴースト ニューヨークの幻」などがある 下にリンクしたWikipediaの作品集一覧をみると、ほとんどの人が見たことがある映画が載っている
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB
いずれにしても、一世を風靡したこの音楽の偉人の冥福を祈らずにはいられない Amen !
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