高野山詣ででやっと四国歩き遍路が済みました ― 2016年06月05日 11時21分08秒
最近も「四国霊場八十八カ所遍路」が盛んですが、私たちが「歩き遍路」を始めたのが2010年10月のこと 脚力がない私たちはいわゆる「区切り打ち」で計18回、のべ62日間、1139.9kmを歩いて第88番札所に着きました 最終日が2013年12月2日で約3年余掛かったことになります
ところがご存じの方も多いと思いますが、これだけでは済んだことにはなりません 終わりに高野山に参らなければなりません 他の旅行などや昨年の「高野山開創1200年」記念行事などでずっと延期してきました
私たちは「歩き遍路」ですので、最後の高野山までもバスや電車は使えません 幸いなことに、世界遺産に含まれる弘法大師母堂を祀る慈尊院や高野山町石道(ちょういしみち)があります
このたびこの寺を起点として町石道を歩いて高野山まで23kmを歩きました ふつうの人なら7~8時間だそうですが、脚力がないため、休憩食事時間をふくめて9時間以上掛かりました
こうして撮った写真が上の壇上伽藍の根本大塔前の物です さらに36町歩いて最終目的地の奥の院・弘法大師を祀る御廟に着きました
四国一番札所から始めて延べ63日、本当の意味で結願です 特に四国ではいろいろな方々から物心ともに大変お世話になりました 改めて御礼申し上げます 合掌
(内部リンク:世界遺産・高野山町石道を歩く)
http://konotabi.com/Photo2016/JPNWakayamaKoyasan/top.html
ところがご存じの方も多いと思いますが、これだけでは済んだことにはなりません 終わりに高野山に参らなければなりません 他の旅行などや昨年の「高野山開創1200年」記念行事などでずっと延期してきました
私たちは「歩き遍路」ですので、最後の高野山までもバスや電車は使えません 幸いなことに、世界遺産に含まれる弘法大師母堂を祀る慈尊院や高野山町石道(ちょういしみち)があります
このたびこの寺を起点として町石道を歩いて高野山まで23kmを歩きました ふつうの人なら7~8時間だそうですが、脚力がないため、休憩食事時間をふくめて9時間以上掛かりました
こうして撮った写真が上の壇上伽藍の根本大塔前の物です さらに36町歩いて最終目的地の奥の院・弘法大師を祀る御廟に着きました
四国一番札所から始めて延べ63日、本当の意味で結願です 特に四国ではいろいろな方々から物心ともに大変お世話になりました 改めて御礼申し上げます 合掌
(内部リンク:世界遺産・高野山町石道を歩く)
http://konotabi.com/Photo2016/JPNWakayamaKoyasan/top.html
真田氏の城・松代城(海津城)と町はいい雰囲気である ― 2016年02月23日 21時58分22秒
今NHK大河ドラマ「真田丸」の人気が高まっている 最近のNHKドラマとしては珍しく「戦国時代」が舞台で動きも早く、何より達者な役者を使い、さらに三谷の脚本がとにかくおもしろいのだ あの草刈正雄がまたうまい!「吉田松陰」は飛んでしまう
前置きはさておき、このたび「信州スキー」の合間に松代に立ち寄った あの真田信幸(信之・信繁「幸村」の兄)が上田城から移封されて以後、明治まで真田家はしぶとく生き残った 「さぞや大河ドラマの真っ最中、人が溢れているだろう」と思いきや、冬の平日で薄ら寒い日のことで観光客は疎らであった 写真を撮る私には「渡りに船」であったが、やや拍子抜けもした
歩くと町のあちこちに「真田六文銭」の旗がはためいている この町(長野市松代町)は真田無くしては存在し得ない感がある 全体にタイムマシーンで遡ったような雰囲気があり、名所旧跡の保存整備もしっかりしている 城も真田館も文武学校も想像力があれば雰囲気に浸れる
「真田館」の受付嬢(元?)に尋ねると、「二人のようさんが撮影に来ました」という 信之(信幸)役の大泉洋と正室役の吉田羊だそうだ 写真を撮っていったという ただ「ここではまだNHKの撮影本隊は来ていません」という 「なぜこんなに観光客が少ないのか?」と訊くと、「上田城に客を取られています なにせ大きな城ですから・・」と仰った
私も以前に上田城に写真を撮りに行ったが、なるほど城の構えも大きく縄張りも広い さらにあの真田昌幸が圧倒的に少ない兵で徳川秀忠の大軍を打ち負かした事実がある おかげで秀忠は関ヶ原に間に合わなかった 真田側から言うと「してやったり!」だ だから「真田といえば上田城」となるのも無理はない
それでも徳川方について真田という家を最後まで「守りきった」兄も評価されるべきであろうか 負け戦に華々しく戦って、散って名を残すのよりも遙かに難しいことである 今は上田に負けている長野市もこれからもっと宣伝すべきであろうか? フレフレ長野!
>内部リンク「松代城」
http://konotabi.com/Photo2016/JPNMatsusirojoCastle/top.html
>内部リンク「上田城」
http://konotabi.com/PhotoAlbum3/2012JPNUedajo/top.htm
前置きはさておき、このたび「信州スキー」の合間に松代に立ち寄った あの真田信幸(信之・信繁「幸村」の兄)が上田城から移封されて以後、明治まで真田家はしぶとく生き残った 「さぞや大河ドラマの真っ最中、人が溢れているだろう」と思いきや、冬の平日で薄ら寒い日のことで観光客は疎らであった 写真を撮る私には「渡りに船」であったが、やや拍子抜けもした
歩くと町のあちこちに「真田六文銭」の旗がはためいている この町(長野市松代町)は真田無くしては存在し得ない感がある 全体にタイムマシーンで遡ったような雰囲気があり、名所旧跡の保存整備もしっかりしている 城も真田館も文武学校も想像力があれば雰囲気に浸れる
「真田館」の受付嬢(元?)に尋ねると、「二人のようさんが撮影に来ました」という 信之(信幸)役の大泉洋と正室役の吉田羊だそうだ 写真を撮っていったという ただ「ここではまだNHKの撮影本隊は来ていません」という 「なぜこんなに観光客が少ないのか?」と訊くと、「上田城に客を取られています なにせ大きな城ですから・・」と仰った
私も以前に上田城に写真を撮りに行ったが、なるほど城の構えも大きく縄張りも広い さらにあの真田昌幸が圧倒的に少ない兵で徳川秀忠の大軍を打ち負かした事実がある おかげで秀忠は関ヶ原に間に合わなかった 真田側から言うと「してやったり!」だ だから「真田といえば上田城」となるのも無理はない
それでも徳川方について真田という家を最後まで「守りきった」兄も評価されるべきであろうか 負け戦に華々しく戦って、散って名を残すのよりも遙かに難しいことである 今は上田に負けている長野市もこれからもっと宣伝すべきであろうか? フレフレ長野!
>内部リンク「松代城」
http://konotabi.com/Photo2016/JPNMatsusirojoCastle/top.html
>内部リンク「上田城」
http://konotabi.com/PhotoAlbum3/2012JPNUedajo/top.htm
春の京都に行きました ― 2007年03月31日 22時41分53秒
今年のJR「青春18きっぷ」は記念切符でなんと8500円、史上最安値!です 買わない人は知らないか、「スローライフ・コンシャス」でない人でしょう 行き先は「きっぷを買ってから考える」ということで、まず気の向いた京都です 新幹線なら一時間ちょっとの京都ですが、2回乗り換えの手間と3時間余の時間は安いと考えるか、高いと考えるかは人によるでしょうね
ということで、最初は京都市美術館の「大エルミタージュ展」に行くつもりが、京都駅についたとたん気が変わって金閣寺に変更です 昼過ぎだったので、金閣寺真ん前の「*麓亭」に入りました お品書きを見ると、「天丼」が690円と安めです さっそく頼むと、なんと4cm位の小エビが2匹、その5倍もある大きなコロモがついてベチョベチョのご飯の上に載っていました 腹が空いていたので我慢して食べました 皆さんはここへは行かない方が良いでしょう
入山料を払って入ると、人出は意外と少ない でも韓国人、中国人の団体さんが多いのが驚きでした やはり京都は「世界ブランド」です 次に清水寺に向かいました ところがここは参道から超満員です 清水は別格でした しかも外国人が4割くらいで、白人がその半分、アジア系が残り半分です とにかく日本の観光地ではダントツの国際スポットです
ここは東山地域なので祇園・八坂神社から近く、多くの舞妓さんが目に付きます そうすると外国人はあちこちから走って寄ってきます 写真を撮る者、いっしょに写真を撮ろうとする者、すごい人気です そういえば「芸者ガール」は外国語になっていました
「清水の舞台」は思ったほど高くなく少しガッカリしましたが、これはたくさんの写真を見すぎてイメージがふくらみすぎた私の「落ち度・ミス」でした ここは外国人だけでなく若い人も多く、清水寺の人気の高さを再確認しました もう一つは外国人の日本文化や京都の知識の高さでした かなり事前に調べてから訪問しているようです
京都は他の地域より寒く、桜は二分咲きでしたが、写真もまずまずで満足して帰途につきました 今度は各停の電車で4時間もかかって帰宅しました それにしても、京都は素敵です
金閣寺の写真
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/photoalbum/Kinkakuji/Kinkakuji.htm
清水寺の写真
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/photoalbum/kiyomizudera/kiyomizudera.htm
ということで、最初は京都市美術館の「大エルミタージュ展」に行くつもりが、京都駅についたとたん気が変わって金閣寺に変更です 昼過ぎだったので、金閣寺真ん前の「*麓亭」に入りました お品書きを見ると、「天丼」が690円と安めです さっそく頼むと、なんと4cm位の小エビが2匹、その5倍もある大きなコロモがついてベチョベチョのご飯の上に載っていました 腹が空いていたので我慢して食べました 皆さんはここへは行かない方が良いでしょう
入山料を払って入ると、人出は意外と少ない でも韓国人、中国人の団体さんが多いのが驚きでした やはり京都は「世界ブランド」です 次に清水寺に向かいました ところがここは参道から超満員です 清水は別格でした しかも外国人が4割くらいで、白人がその半分、アジア系が残り半分です とにかく日本の観光地ではダントツの国際スポットです
ここは東山地域なので祇園・八坂神社から近く、多くの舞妓さんが目に付きます そうすると外国人はあちこちから走って寄ってきます 写真を撮る者、いっしょに写真を撮ろうとする者、すごい人気です そういえば「芸者ガール」は外国語になっていました
「清水の舞台」は思ったほど高くなく少しガッカリしましたが、これはたくさんの写真を見すぎてイメージがふくらみすぎた私の「落ち度・ミス」でした ここは外国人だけでなく若い人も多く、清水寺の人気の高さを再確認しました もう一つは外国人の日本文化や京都の知識の高さでした かなり事前に調べてから訪問しているようです
京都は他の地域より寒く、桜は二分咲きでしたが、写真もまずまずで満足して帰途につきました 今度は各停の電車で4時間もかかって帰宅しました それにしても、京都は素敵です
金閣寺の写真
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/photoalbum/Kinkakuji/Kinkakuji.htm
清水寺の写真
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/photoalbum/kiyomizudera/kiyomizudera.htm
やっとヴェニスに行けた! ― 2007年02月08日 17時53分40秒
ヴェネツィアは歴史でも観光でも世界的に知られるメジャースポットである それにしてもこの語の表記は複雑である ヴェネチア、ベネチア、ベネティア、ヴェニス、ベニス等々 正しくはヴェネツィアであろうが、かつてはラテン語でヴェネティアと呼ばれた しかしまあそれは問題ではない 他に紛らわしい地名がないからである それにかって盛大な勢力を誇った都市(共和国)であるから、仮に名前の似た町があってもこちら「勝つ」に違いない
「旅行好き」の私はヨーロッパが大好きである 歴史が古いからである しかし「歴史が古い」といえば、他にインドもメソポタミアもあるが、そこにはまだ行っていない それは旅行の安全性や偶然によるものなのだが、ヨーロッパの場合歴史から来る派生物・・音楽、美術、教会、城郭等の私の好物が多く残っているからが大きな理由である
そういう中でイタリアは今から20年以上前にそこそこ行った しかしヴェニスと南部だけは残ってしまった ずっと気にはかかっていた あのゲルマン民族大移動の時代に始まった、そして歴史の本にたびたび登場するこの町に行きたくない訳もなかった しかし他に行きたい場所が多すぎて、結果的にに「後回し」になっていただけのことである 言い訳になるが、今回の訪問も実はここが目的で来たのではなかった
私の趣味のひとつに齢四十で始めたスキーがある 海外では主にカナダやスイス、オーストリアを中心に滑っていた ところがいつもお世話になっているスキー旅行会社の社員が「写真もスキーもお好きならコルチナですよー」と水を向けてきたのだ さっそくカタログを見た あった! ヴェニスの一日観光を入れて「コルチナ・ダンペッッオ10日間」というのがあった スキーの前に一日だけ!観光が入るのだ
こうなると、長年の「懸案」であった「ヴェニス観光とイタリアスキーが一度で済む」のだ すぐにそのツアーに申し込んだ しかし「そんなに簡単な物ではない」というのが後で分かるのである
写真はこの下をクリックどうぞ
ヴェネツィア(ヴェニス)/サンマルコ広場
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/photoalbum/ITVenice2SanMarco/Marco.htm
ヴェネツィア(ヴェニス)のイメージ
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/photoalbum/ITVenice/Venezia.htm
「旅行好き」の私はヨーロッパが大好きである 歴史が古いからである しかし「歴史が古い」といえば、他にインドもメソポタミアもあるが、そこにはまだ行っていない それは旅行の安全性や偶然によるものなのだが、ヨーロッパの場合歴史から来る派生物・・音楽、美術、教会、城郭等の私の好物が多く残っているからが大きな理由である
そういう中でイタリアは今から20年以上前にそこそこ行った しかしヴェニスと南部だけは残ってしまった ずっと気にはかかっていた あのゲルマン民族大移動の時代に始まった、そして歴史の本にたびたび登場するこの町に行きたくない訳もなかった しかし他に行きたい場所が多すぎて、結果的にに「後回し」になっていただけのことである 言い訳になるが、今回の訪問も実はここが目的で来たのではなかった
私の趣味のひとつに齢四十で始めたスキーがある 海外では主にカナダやスイス、オーストリアを中心に滑っていた ところがいつもお世話になっているスキー旅行会社の社員が「写真もスキーもお好きならコルチナですよー」と水を向けてきたのだ さっそくカタログを見た あった! ヴェニスの一日観光を入れて「コルチナ・ダンペッッオ10日間」というのがあった スキーの前に一日だけ!観光が入るのだ
こうなると、長年の「懸案」であった「ヴェニス観光とイタリアスキーが一度で済む」のだ すぐにそのツアーに申し込んだ しかし「そんなに簡単な物ではない」というのが後で分かるのである
写真はこの下をクリックどうぞ
ヴェネツィア(ヴェニス)/サンマルコ広場
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/photoalbum/ITVenice2SanMarco/Marco.htm
ヴェネツィア(ヴェニス)のイメージ
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/photoalbum/ITVenice/Venezia.htm
アンネ・フランクの家(2) ― 2006年09月26日 08時25分34秒
アンネの家「アンネ・フランク・ハウス」は教会と同じ運河沿いで、ほとんど傍である 地図を持っていなくても、場所はすぐ分かる 日曜日ということもあろうが、教会辺からひとが同じ方向にむかっているのだ そのひとたちはレンガの建物の前に集まる 上の写真である 入場者は建物の半回り弱である 日本の美術館の特別展はこんな物ではないが、ヨーロッパでは珍しい方だ
しばらく並んでから入場 料金は7.5ユーロ(日本円で約1125円) 中はなるほど狭いしきれいではないが、もともとアンネの父の会社(倉庫など)であるので仕方がない それにひとも並んでいてゆっくり進むので、余計に狭く感じる 写真で有名な隠れ家の入り口は想像していたより広い
写真を・・と思ったが、監視カメラが睨んでいる それに入り口で尋ねても「ダメ」といわれていた 話はもどるが、その入り口にある「監視テレビシステム」はすごい 係りがかかりつけで、1秒ごとに各部屋のカメラを切り替えて見ている 客のおかしい動きがあると、トランシーヴァーで部屋ごとの担当に、「ポール!*********!」とか指示を出している けっこう「怪しい奴」はいるみたいだ
話はもどる 階段は思っていたより広いし、つながった部屋も思っていたより広い しかし8人も隠れていたのだから、妥当な広さだろうか ふつうは開けられなかった窓からは、中庭やそこに生えている木やよその窓が見える ということは反対からも見えるのだ 部屋の家具類や壁に貼った当時の「アイドル」だっただろう映画スターの写真もあった
展示の日記の一部や生活用具などよく保存されていると思ったが、あとで読んだここの公式本「ものがたりのあるミュージアム」によると、「・・1944年8月4日の逮捕後、隠れ家はドイツ占領軍の命令によって家具などの備品がすべて持ち去られましたが、(戦後)隠れ家時代の様子をより鮮明に伝えるため、建物前面と裏の家に家具を入れて、撮影したカラー写真もカタログに掲載しました ・・・・」 蛇足ながら、この本は日本語版を含め、多くの言語で売られている 一部10ユーロ(日本円約1500円)である 因みに私たちは日・英の二部を購入した
ということは、建物と日記・写真等の展示品は本物だが、家具什器類は当時の物(その時代のもの)であって、置いてある金ダライもアンネが顔を洗ったそのものではない しかしだからといって、そこの価値が下がる物ではない もちろんTDLやUSJとはまったく別物である このたびの旅で訪問した「レンブラントの家」も「ルーベンスの家」も、厳密には当時の物ではない 修理、修復したり展示品を他所から戻している
だからこういう「生家とか住んでいた家」は、「タダ行きました」・・ではなく、訪問の目的や訪問者の「生活、人生で訪問がどういう意味があるのか」という「見る側の人生観、価値観」が問われるのである そうでなければ、あまり意味のないことである また見学した後の行動がさらに大切である
わたしは前段では「家」の細かい説明らしい物をつけたが、もともと、家の解説が目的ではない もっと上手に説明される作家とかレポーターがいくらでもいる 要は、このくらい「貴重な象徴的な物」はあまりないということである
実際の所、アンネのような「不幸な少女」は、ナチの時代には「掃いて捨てるくらい」いた それが日記という記録、それを本に出来た生き残った父と仲間、それに戦後すぐの「反戦、反ファシズム」の平和志向、そして最大のものはバックにある世界有数のお金を持ったユダヤ人組織の存在という条件が整っていたからだ
広島では原爆で壊れた家は何万件もあるのに、「原爆ドーム」だけが「生き残った」 長崎では浦上天主堂であろうか 沖縄戦でなくなった未成年はたくさんいるのに、「ひめゆり部隊」が特に有名になった ベルリンではそれがカイザー・ヴィルヘルム教会である 未だにベルリン陥落時のままである それでも構わないのである これらすべてが「平和のシンボル」であり、それが戦争の記録、反戦の記念碑、人類の不幸な歴史を風化させない記録なのである
私は数年前にポーランドの元アウシュヴィッツ収容所に行った そこには多くのユダヤ人も見学に来ていた イスラエルから学生集団が国旗を持って見学に来て、ガイドから熱心に話を聞いていた その時の写真類をまとめて、親HPに載せている このように私はことさら「ユダヤ人関係の施設」に多く見学に行っている しかしだからといって、「ユダヤびいき」というわけではない 私はアラブの国に3年住んでいた 友人も多い
話を「アンネの家」にもどそう 館内にこういう意味の案内プレートがあった 「アンネ・フランク財団の活動にご協力下さい この財団はNPOで皆さまの協力が私たちの活動を支えます 私たちはすべての差別に反対する活動をしています・・」
戦後60年以上経ったいま、世界は相変わらず、戦争、テロ、差別などが絶えない その中の一つに「パレスティナ問題」がある むかし差別され虐殺されたユダヤ人が現在、圧倒的武力を持って隣り合ったパレスティナ人(アラブ系)を殺している それがパレスティナ側のテロがあったからといって、その殺戮の事実は消えない 自分たちがされたことを他の民族にするのでは、あまりにも悲し過ぎる まことに人間の業(ごう)は深い
<関係リンク>
「アンネの家」公式サイト(英語):
http://www.annefrank.org/content.asp?pid=1&lid=2
「アンネ・フランク・センター」公式サイト(ニューヨーク・英語):
http://www.annefrank.com/
アウシュヴィッツ強制収容所(当管理人サイト):
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/auschwitz/toppage.htm
しばらく並んでから入場 料金は7.5ユーロ(日本円で約1125円) 中はなるほど狭いしきれいではないが、もともとアンネの父の会社(倉庫など)であるので仕方がない それにひとも並んでいてゆっくり進むので、余計に狭く感じる 写真で有名な隠れ家の入り口は想像していたより広い
写真を・・と思ったが、監視カメラが睨んでいる それに入り口で尋ねても「ダメ」といわれていた 話はもどるが、その入り口にある「監視テレビシステム」はすごい 係りがかかりつけで、1秒ごとに各部屋のカメラを切り替えて見ている 客のおかしい動きがあると、トランシーヴァーで部屋ごとの担当に、「ポール!*********!」とか指示を出している けっこう「怪しい奴」はいるみたいだ
話はもどる 階段は思っていたより広いし、つながった部屋も思っていたより広い しかし8人も隠れていたのだから、妥当な広さだろうか ふつうは開けられなかった窓からは、中庭やそこに生えている木やよその窓が見える ということは反対からも見えるのだ 部屋の家具類や壁に貼った当時の「アイドル」だっただろう映画スターの写真もあった
展示の日記の一部や生活用具などよく保存されていると思ったが、あとで読んだここの公式本「ものがたりのあるミュージアム」によると、「・・1944年8月4日の逮捕後、隠れ家はドイツ占領軍の命令によって家具などの備品がすべて持ち去られましたが、(戦後)隠れ家時代の様子をより鮮明に伝えるため、建物前面と裏の家に家具を入れて、撮影したカラー写真もカタログに掲載しました ・・・・」 蛇足ながら、この本は日本語版を含め、多くの言語で売られている 一部10ユーロ(日本円約1500円)である 因みに私たちは日・英の二部を購入した
ということは、建物と日記・写真等の展示品は本物だが、家具什器類は当時の物(その時代のもの)であって、置いてある金ダライもアンネが顔を洗ったそのものではない しかしだからといって、そこの価値が下がる物ではない もちろんTDLやUSJとはまったく別物である このたびの旅で訪問した「レンブラントの家」も「ルーベンスの家」も、厳密には当時の物ではない 修理、修復したり展示品を他所から戻している
だからこういう「生家とか住んでいた家」は、「タダ行きました」・・ではなく、訪問の目的や訪問者の「生活、人生で訪問がどういう意味があるのか」という「見る側の人生観、価値観」が問われるのである そうでなければ、あまり意味のないことである また見学した後の行動がさらに大切である
わたしは前段では「家」の細かい説明らしい物をつけたが、もともと、家の解説が目的ではない もっと上手に説明される作家とかレポーターがいくらでもいる 要は、このくらい「貴重な象徴的な物」はあまりないということである
実際の所、アンネのような「不幸な少女」は、ナチの時代には「掃いて捨てるくらい」いた それが日記という記録、それを本に出来た生き残った父と仲間、それに戦後すぐの「反戦、反ファシズム」の平和志向、そして最大のものはバックにある世界有数のお金を持ったユダヤ人組織の存在という条件が整っていたからだ
広島では原爆で壊れた家は何万件もあるのに、「原爆ドーム」だけが「生き残った」 長崎では浦上天主堂であろうか 沖縄戦でなくなった未成年はたくさんいるのに、「ひめゆり部隊」が特に有名になった ベルリンではそれがカイザー・ヴィルヘルム教会である 未だにベルリン陥落時のままである それでも構わないのである これらすべてが「平和のシンボル」であり、それが戦争の記録、反戦の記念碑、人類の不幸な歴史を風化させない記録なのである
私は数年前にポーランドの元アウシュヴィッツ収容所に行った そこには多くのユダヤ人も見学に来ていた イスラエルから学生集団が国旗を持って見学に来て、ガイドから熱心に話を聞いていた その時の写真類をまとめて、親HPに載せている このように私はことさら「ユダヤ人関係の施設」に多く見学に行っている しかしだからといって、「ユダヤびいき」というわけではない 私はアラブの国に3年住んでいた 友人も多い
話を「アンネの家」にもどそう 館内にこういう意味の案内プレートがあった 「アンネ・フランク財団の活動にご協力下さい この財団はNPOで皆さまの協力が私たちの活動を支えます 私たちはすべての差別に反対する活動をしています・・」
戦後60年以上経ったいま、世界は相変わらず、戦争、テロ、差別などが絶えない その中の一つに「パレスティナ問題」がある むかし差別され虐殺されたユダヤ人が現在、圧倒的武力を持って隣り合ったパレスティナ人(アラブ系)を殺している それがパレスティナ側のテロがあったからといって、その殺戮の事実は消えない 自分たちがされたことを他の民族にするのでは、あまりにも悲し過ぎる まことに人間の業(ごう)は深い
<関係リンク>
「アンネの家」公式サイト(英語):
http://www.annefrank.org/content.asp?pid=1&lid=2
「アンネ・フランク・センター」公式サイト(ニューヨーク・英語):
http://www.annefrank.com/
アウシュヴィッツ強制収容所(当管理人サイト):
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/auschwitz/toppage.htm
アンネ・フランクの家(1) ― 2006年09月25日 11時29分52秒
アンネ・フランクの隠れていた家は、今は博物館である 駅から市電で行くと、Westermarktで降りる その前にある西教会は大きな教会で、塔は85mとアムステルダム一の高さである レンブラントはここの共同墓地に1669年に葬られたという あんなに活躍した「人間国宝」的彼が「共同墓地」は悲しい ウィーンのマルクス墓地のモーツァルトを思い出してしまった この教会は他には、ベアトリクス現女王も、ここで結婚式をされた由緒ある場所だ
大きなドアが閉まっていた 二匹のダックスフントを連れて散歩していたインテリそうな中年紳士に訊いた そうすると、「今日は日曜日で自由には入れません わたしたち"We"は今日は礼拝も公にはしていません」という たぶん神父様だろう 道理で話し方に説得力がある 聖書でも「神は七日目に休まれた」のだ
犬の一匹が、なぜか私の足下で背を地面につけて「愛嬌」している かわいいので撫でながら「かわいいですね」と言ったら、「それでもこれは狩猟犬ですよ」とさらりと言った このあたりが客観的な物言いの方だ ふつうの日本人なら、自分の犬をほめられてこういう言い方はしない 日本のように、犬がただの「愛玩」犬に成り下がっていないからだろう
その西教会の壁際に「アンネの全身像」があり、足下にバラの花束がさりげなく置いてあった 通りすがりの観光客が皆カメラで撮ってゆく 私も撮った あるグループは像と一緒に、記念写真を撮っていた 彼女がいかに世界中の人に知られ、愛されているかが分かる その像の顔部分が上写真である そのあとに、同じ筋にある彼女の家に向かった (つづく)
大きなドアが閉まっていた 二匹のダックスフントを連れて散歩していたインテリそうな中年紳士に訊いた そうすると、「今日は日曜日で自由には入れません わたしたち"We"は今日は礼拝も公にはしていません」という たぶん神父様だろう 道理で話し方に説得力がある 聖書でも「神は七日目に休まれた」のだ
犬の一匹が、なぜか私の足下で背を地面につけて「愛嬌」している かわいいので撫でながら「かわいいですね」と言ったら、「それでもこれは狩猟犬ですよ」とさらりと言った このあたりが客観的な物言いの方だ ふつうの日本人なら、自分の犬をほめられてこういう言い方はしない 日本のように、犬がただの「愛玩」犬に成り下がっていないからだろう
その西教会の壁際に「アンネの全身像」があり、足下にバラの花束がさりげなく置いてあった 通りすがりの観光客が皆カメラで撮ってゆく 私も撮った あるグループは像と一緒に、記念写真を撮っていた 彼女がいかに世界中の人に知られ、愛されているかが分かる その像の顔部分が上写真である そのあとに、同じ筋にある彼女の家に向かった (つづく)
田舎の村の暁(ルクセンブルグ)の写真のこと ― 2006年09月23日 19時59分36秒
すでに何度か、このブログ(おやHP)を見ていただいた方にはお分かりでしょうが、このたび、ベネルクス三国ドライヴを「敢行」いたしました。長年の「夢」でした。この写真はちょっとクリックされる方には、「ほう、朝焼けを撮ったのか。フーン」くらいでしょうが、実はその前の日は大変だったのです。
また「ドライヴ日記」に書きますが、前の晩は「宿がない!」ということで、宿を探し回ったが、全く空き部屋が無く、急遽「アウトバーン」のサーヴィスエリアのパーキングに車を止め、その中で寝ていたのです。夜明けにふと目が覚めトイレに行くと、東の空は日の出寸前!寝ぼけ眼であわてて車内のカメラを取りに行きました。カミさんはジャンパーを被って、しあわせそうにグーグーと天国にいました!
カメラを取り出すとパーキングエリアの端まで走りました。それから少し寒い大気の中で、白い息を吐きながら写真を撮り続け、およそ20枚以上は撮ったでしょうか。この写真を撮りました。三脚は車のトランクにありましたが、時間がかかるので、それは無視して手持ちで撮りました。写真を伸ばすとアラがバレそうですが、「HP程度では誤魔化せるかも・・」とシャッターを押しました。
目で見た実際の風景はもっと朝靄がありましたが、写真にすると「あれあれ」状態です。プロの方の凄さを改めて知りました。まあ、アマなのでこれで許してくださいね。では下のクリックどうぞ。
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/photoalbum/Image/DawnatavillageLx/DawnatavillageLx.htm
また「ドライヴ日記」に書きますが、前の晩は「宿がない!」ということで、宿を探し回ったが、全く空き部屋が無く、急遽「アウトバーン」のサーヴィスエリアのパーキングに車を止め、その中で寝ていたのです。夜明けにふと目が覚めトイレに行くと、東の空は日の出寸前!寝ぼけ眼であわてて車内のカメラを取りに行きました。カミさんはジャンパーを被って、しあわせそうにグーグーと天国にいました!
カメラを取り出すとパーキングエリアの端まで走りました。それから少し寒い大気の中で、白い息を吐きながら写真を撮り続け、およそ20枚以上は撮ったでしょうか。この写真を撮りました。三脚は車のトランクにありましたが、時間がかかるので、それは無視して手持ちで撮りました。写真を伸ばすとアラがバレそうですが、「HP程度では誤魔化せるかも・・」とシャッターを押しました。
目で見た実際の風景はもっと朝靄がありましたが、写真にすると「あれあれ」状態です。プロの方の凄さを改めて知りました。まあ、アマなのでこれで許してくださいね。では下のクリックどうぞ。
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/photoalbum/Image/DawnatavillageLx/DawnatavillageLx.htm
最近のコメント