「シーボルト」ゆかりのライデン(オランダ)2006年09月29日 22時01分38秒

ライデン大学植物園にあるシーボルト像
 旅行でオランダのライデンに行ってきた 町中を散歩したり、ライデン大学構内も歩いてみた ドクトル・シーボルトの旧居や彼が持ち帰った紫陽花や椿が植えてあるライデン大学植物園も見てきた 

 日本人で「シーボルト博士」を知らない人は、あまりいないだろう 学校時代に社会科が嫌いで、あまり歴史など勉強しなかった方でも、きっと一回くらいは彼の名前を聞いたことがあるだろう 

 「江戸時代に、日本と交渉があったオランダ船に乗って長崎に来た医者」くらいは、歴史が少し好きな方には常識であろう もっと歴史が好きな人は、「日本人の女性(楠本滝)と結婚した 日本人に西洋医学を教えた シーボルト事件で国外追放になった オランダ人と言って入国したが、本当はドイツ人」位はご存じだろう

 さらに歴史書を読むくらいの方なら、日本人妻との間に生まれた娘イネ(通称「オランダおいね」)は医者になったが、それが日本で最初の西洋医学の女医であったこと ドイツのヴュルツブルグの名門の生まれで、ドイツでVONが付く名前は、貴族出身であること、長崎に医学校の前身である鳴滝塾をつくり、高野長英らを教えたことなど・・をご存じだろう

 ところがこんなに有名なシーボルトだが、母国ドイツでは「ジーボルト」であるのはあまり知られていない 名前は本来、母国語の読み方がいちばん正しい 中国人は日本人名を中国式によむが、あれは例外であろう(日本人も中国人名を日本式によんでいる 「孔子」を中国人は「こうし」とはいわない)

 だからドイツでは von Siebold は「ジーボルト」でなくてはならない だがまだジーボルトでも正確ではない 前のvonはつけてよむのが通例だ だから「フォンジーボルト」が正しい 「やまだ」さんが「まだ」さんと正式に呼ばれたら、きっと怒るだろう

 まだフツーの日本人が知らないことがある 彼はあの「シーボルト事件」で「国外追放」になったのだが、のちに彼は帰国後ドイツ貴族の娘と結婚し、3男2女をもうけた ということは、日本に「腹違いのイネ」がいたので、つまりはイネには「5人の弟妹がいた」ことになる

 彼はヨーロッパ諸国に日本に開国させるように働きかけた さらに来日前のペリーに日本の情報を提供した のち日本が開国してアメリカだけでなく、ヨーロッパ諸国とも条約が結ばれ、「シーボルト追放令」も解除されると、1859年シーボルトは「オランダ貿易会社顧問」-という身分で再来日した そして1862年ドイツに帰国するまで、何と以前に自分を追放した「江戸幕府」の外交顧問まで勤めているのである しかし、彼は日本が新しい明治になるのを見聞きすることはなく、ドイツのミュンヘンで死んだ

 さてその「シーボルトの町ライデン」だが、今でもむかしの雰囲気が残っているすてきな町である とくに運河が張りめぐらされた旧市内は散歩するくらいの大きさであり、落ち着いた風情である また画家レンブラントもこの地で生誕したので、生家跡や銅像など関係の物も多い

 はじめに書いたように、ライデン大学付属植物園には小さな日本庭園があり、上の写真の像が迎えてくれる そのわきには彼が大好きだった紫陽花が、たくさん植わっている 開花の季節ならきっと美しいに違いない ライデンはすてきな町である

親HPの写真はこの下をクリック:
「オランダ最古の大学町・シーボルトゆかりのライデン」
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/photoalbum/NL_Leiden2/Leiden.htm

(リンク)「長崎の女たち・楠本-シーボルト・イネ」(テレビ長崎公式サイト)
http://www.ktn.co.jp/n-woman/kusumoto.html

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