アウシュヴィッツとパレスティナ・ガザ2024年02月22日 15時41分04秒

「アウシュヴィッツ収容所」を訪れたユダヤ人の学生グループ
 最近パレスティナ・ガザ地区に関する報道がかしましい ほぼ毎日のようにガザ地区の無辜の民、市民が殺される画像や事柄が報道される それを見ても心が痛くなる 女性、幼児、老人の痛ましい姿は「これをするのが同じ人間か!?」と思う

 世界からあれだけの非難、抗議を受けてもユダヤ人の国家イスラエルは侵略、殺戮をやめない どこまですれば攻撃は止むのだろうか?

 かなり前のことだが、私はリュックを背に汽車を乗り継いでポーランドの「アウシュヴィッツ強制収容所」を訪れたことがあった 内部の施設や展示、ガス室、絞首台などつぶさに見て回った それはそれまで見た、聞いた、読んだ事柄以上にショッキングであった

 狂気のナチスの仕業とはいえ、こんなことができる人間は罪深い 今では博物館になっているこの収容所を出たときは頭がボーとしていた いちばん殺されたのはユダヤ人であったが、他にもジプシー、社会主義者、パルチザン、スラブ人などなど数限りなかった

 自分たちの気に入らない人間は皆殺し・・・というのは戦後80年が過ぎた現代でもかぎりない 海外ニュースを見てもそんなことばかりである
 
 とくにナチスの迫害の最大の被害者であったユダヤ人が自分たちがされたことをそのままやっている それが「彼らの正義」なのであろうか?

 「汝の敵を愛せ」とまでは言わなくても、「隣人とは仲良く」できないユダヤ人がある意味憐れである 殺せば殺すほど平和は遠のき、永遠に恨みは増し続いてゆく 神も仏もない世が悲しい

 よかったら・・・
 (内部関係リンク)「アウシュヴィッツ収容所」
http://konotabi.com/auschwitz/toppage.htm

高野山詣ででやっと四国歩き遍路が済みました2016年06月05日 11時21分08秒

高野山・根本大塔で
 最近も「四国霊場八十八カ所遍路」が盛んですが、私たちが「歩き遍路」を始めたのが2010年10月のこと 脚力がない私たちはいわゆる「区切り打ち」で計18回、のべ62日間、1139.9kmを歩いて第88番札所に着きました 最終日が2013年12月2日で約3年余掛かったことになります

 ところがご存じの方も多いと思いますが、これだけでは済んだことにはなりません 終わりに高野山に参らなければなりません 他の旅行などや昨年の「高野山開創1200年」記念行事などでずっと延期してきました

 私たちは「歩き遍路」ですので、最後の高野山までもバスや電車は使えません 幸いなことに、世界遺産に含まれる弘法大師母堂を祀る慈尊院や高野山町石道(ちょういしみち)があります 

 このたびこの寺を起点として町石道を歩いて高野山まで23kmを歩きました ふつうの人なら7~8時間だそうですが、脚力がないため、休憩食事時間をふくめて9時間以上掛かりました

 こうして撮った写真が上の壇上伽藍の根本大塔前の物です さらに36町歩いて最終目的地の奥の院・弘法大師を祀る御廟に着きました 
 
 四国一番札所から始めて延べ63日、本当の意味で結願です 特に四国ではいろいろな方々から物心ともに大変お世話になりました 改めて御礼申し上げます 合掌

 (内部リンク:世界遺産・高野山町石道を歩く)
http://konotabi.com/Photo2016/JPNWakayamaKoyasan/top.html

とうとう達成!「現存十二天守巡り」2014年11月08日 23時53分48秒

雨降る紅葉の弘前城
 このたび、やっと「現存十二天守巡り」が終了した 「現存」というのは明治以後も生き残った天守閣を持つ城のことである 歴史上数えられないほどあった日本の城も 1途中で廃城(江戸期一国一城令など)、2落雷火事などで炎上消滅、3,幕府への遠慮でもともと作られなかった、4明治初期の廃城令で処分、5戦争時の空襲などで焼失し消えていった

 日本人だれもが知る名城、熊本城、大坂城、名古屋城、岡山城などは明治後もかろうじて生き残ったが、すべて戦乱、空襲で消滅した そういう意味では「現存十二天守」は規模の大小、姿の美しさとは無関係に「運が良かった城」とでもいうべきであろうか

 ではその十二城とは・・・?
世界遺産の姫路城、国宝の松本城、犬山城、彦根城、重文の丸岡城、備中松山城、松江城、丸亀城、伊予松山城、宇和島城、高知城と最北の弘前城である

 城が好きな筆者はカメラ片手に宇和島城から撮り始めた 桜前線を追いかけながら、また気候のよい時期にととんとんと進んだ ところが最後の一つがなかなか終わらなかった それは青森県の弘前城、我が家からは大変遠い!

 それでもこの秋やっと念願を果たすことができた 「弘前城はやはり春」というのが一般の定評(桜)だが、人が多すぎてとても写真にはならない そういうわけで秋にしたのだ 生憎当日は雨!!それでも写真を撮ってきた そういう写真がこれだ 

 内部リンク:「弘前城」
      http://konotabi.com/TokokuDrive2014/Hirosakijo/top.html          「私が行った日本の城」
      http://konotabi.com/JapaneseCastles/top.html

幼いルイ17世の心臓2014年06月16日 18時45分25秒

歴代フランス国王の眠るサン・ドニ大聖堂
 ここはパリ郊外の町サン・ドニの「サン・ドニ大聖堂」 数人の例外を除いて、ほとんどのフランス国王が眠る墓所である 最初の墓はフランク王国時代の物である 学校時代に習ったあの「フランク王国」である

 最後の時代はもちろんフランス革命で死刑にされたルイ16世と王妃マリー・アントワネット 革命後5年も経たずにパリ・コンコルド広場でギロティンによって公開処刑された このあたりまでは私たちも学校時代に習った

 ところが余程詳しい授業でなければ、二人の子「王太子」であったルイ17世に触れることないだろう 彼は父母の処刑後、悪意ある人物に預けられたが、幽閉虐待され続けた 当時は王室の者は「国民の敵」という風潮だった これはロシア革命後のロマノフ王家に対するボルシェヴィキの仕打ちと似ている

 その仕打ちのあげく、病に罹りわずか10歳で病死した 当時の肖像を見ると眉目秀麗、理知的で賢そうな顔立ちである この少年が無惨な死にかたをしたかと思うとなにか悲しくなる

 さて写真の物だが、そのルイ17世の乾いた心臓が当聖堂地下の壁にはめ込まれている 彼の死後、検死の医師が密かに心臓を持ちだして、自宅でブランディーを塗り保存していた それが乾燥しカチカチになった その物である

 フランスブルボン王朝が国民に為したことは歴史で明らかである だが子どもには何の責任もない 虐待をし続けて「殺してしまう」こともない 革命の過ち、行き過ぎといっても、あまりにも悲しすぎる 詳しくお知りでない方で歴史好きの方には、下にリンクがあるのでお読みいただきたい

 内部リンク:歴代フランス国王の眠るサン・ドニ大聖堂
http://konotabi.com/FranceDrive2014/St-Denis/top.html#louis17

このたび、四国霊場歩き遍路を満願いたしました2013年12月11日 00時14分04秒

四国遍路終わりの寺、大窪寺にて
 写真は四国霊場八十八ヵ所の最後の寺、大窪寺でのものです 二つある門の新しい方の仁王門です 四国を遍路する者が目指す最後の寺はやはり長く上がった山の中にありました 「最後まで楽をさせてくれないなぁ~」という感じの終わり方でした

 それでも、この寺より11km手前にある香川県さぬき市の山中にある「おへんろ交流サロン」では歩き遍路終了証明書を兼ねた「四国八十八ヵ所遍路大使任命書」を無料で頂き、先が見えた嬉しさで少しだけ元気になってここまで辿り着きました

 話によると、歩き遍路者でも「通し打ち」という全コースを一度で回る「根性の入った信仰心の厚い」人たちは感極まって涙する人が多い・・ということです 一回で通して四国を歩く場合、雨や風はもちろん台風が来たり、マメができたり足が痛くても、体調不良で体がしんどくても毎日歩き続きなければなりません 数十日間家にも帰れませんし、家人にも会えません

 そうして四国を一周をした人たちが最後の寺に辿り着いた時の気持ちは何となく想像できます 私たちのような「区切り打ち」といういわば「細切れ遍路」でさえも慣れない歩きはいろいろ結構大変でした 足かけ4年、延べ61日、全行程約1100kmを歩くというのも人生初めての体験でした

 マメができる、足の筋肉痛、荷物が重くて肩が痛い、雨のなかで体、靴の中まで水浸し、国道にたまった水をぴしゃと車にかけられる・・・・といった辛い思いではいくらでもあります 特に豪雨の室戸岬手前の道で高知県警のパトカーに多量の水を浴びせられた時はさすがに堪えました

 それでも四国の方々のお接待を含む親切は心に残ります 近畿大・歌一洋氏を始め、善意の方々が作った多くの「お遍路さん休憩所」で休ませてももらったこと、自分の土地を無償で提供し「ヘンロ小屋第一号」を作り、毎日接待していた野村カオリさんの暖かさに触れられたこと・・

 列車内に杖を置き忘れて歩いていたカミさんに、走って追いかけてきて竹の杖を下さった徳島県の食料品店若主人、地元企業が作った「お遍路さん休憩所」で休んでいた時、通り過ぎた車が大急ぎでバックしてきて止まり、冷えたお茶カンを持ってきてくださった地元の漁師風の方、きっと彼は自分用の飲み物を下さったのでしょう 高知県室戸市のことでした

 後から声をかけてきて山のようなミカンを下さった野良のお婆ちゃんたち、仕事中に道の駅でわざわざ走り寄ってきて二人に500円ずつを下さったトラック・ドライヴァーの方、この方とは別の寺で巡り会うことになりました 三日後のことでした 一緒にいたお母さんに「あの遍路さんたちももうこの辺を歩いている頃だなあ」と言っていた後だそうです 不思議な縁(えにし)です

 愛媛のミカン畑の山道を歩いていると、収穫を終えたミカン農家の車が止まり、たくさんのミカンを下さったおばちゃんとお婆ちゃん、ミカンの箱の間には女の子たちが二人いて、「がんばってね」と手を振ってくれました あまいあま~いミカンでした

 屋島登山口で自転車で追いかけてきてニコニコして1000円を下さったお婆ちゃんはこう仰いました 「お遍路さんはお大師様だ こうすること(お接待)で私も一緒に遍路させてもらっているのだ 有り難いことだ」と

 彼女は一見した所、年金生活者のように見えました その方がいわれるには「あなた方が今日の3組目ですよ たまたまお金を持っていたので団体の方たちにも差し上げました」 「アカの他人」にたぶん潤沢でもない彼女がお金を施して「有り難い」というのです 本当はもらった方が「有り難い」というのですが・・ 四国にはこういう風土があるのです

 四国の皆さん、本当にほんとうに有り難うございました お陰様で結願できました 頂いた食べ物はすべて食し、頂いたお金はすべてお寺の賽銭にさせていただきました 来春は最後の仕上げに高野山に参ります

 四国の魅力は弘法大師の足跡、偉業の場所だけでなく、自然の素晴らしさ、そして人々のたいへん温かい心<お接待のこころ>です これがある限り「お遍路さん」はなくなりません この場所を借りて御礼申し上げます 合掌!

内部リンク:四国歩き遍路トップページ:
      http://konotabi.com/HenroShikoku88/top.htm

アウシュヴィッツ収容所の毒ガス缶2013年09月10日 22時52分38秒

アウシュヴィッツ収容所の毒ガス、ツィクロンB
 このところマスコミでシリア政府軍が使ったとされる毒ガスの報道が絶えない もし事実なら国際法違反だけでなく、人道に対する罪といわざるを得ない 大変残念なことである しかもそれが自国民の虐殺に使われたのだから不幸この上ない

 類似の事件はイラクのフセイン大統領派が、国内のクルド人に対して毒ガスを使用し虐殺したことがある また国内ではあのオームがサリンを使った無差別殺人がよく知られる また戦争中に各国が盛んに毒ガスを開発し、第一次大戦以来多く使われた 旧日本軍もこの中に入る またアメリカがヴェトナム戦争で使用した「枯れ葉剤」も広い意味でこの分類に属すると言える

 毒ガスはもともとは農業など害虫駆除を目的に使われたガスであり、設備投資も簡単で、他の兵器とくらべて極めて安価に製造できるという 分かりやすく言えば、肥料工場でも毒ガスを作ることができるという

 従ってアメリカ、ロシア、中国などといった軍事大国でなくても、製造保有できるという特徴がある 軍事予算の少ない小国だけでなく、アルカイダなどテロリストも使えるのである 実はアメリカが恐れているのは「シリアの国民の生命」などではなく、「自国民に対して使われる」ことではないのだろうか?

 さて写真であるが、筆者がかなり前に訪れたポーランドの「アウシュヴィッツ収容所」(現国立博物館)に展示されていた「ツィクロンB」という青酸系毒ガス缶(使用済み)を写したものである 収容所が解放後、連合軍が発見したものだという 山のようにあるが実はほんの一部らしい

 万人の知るあの「ナチスによる大虐殺」もほとんどがこのガスによる まさに「害虫退治」のためのガスが、ナチスによってユダヤ人のみならず同性愛者、ジプシー、社会主義者、反体制運動家たちを「害虫」として殺した道具であった

 通常兵器も恐ろしいが、核兵器やこの毒ガスは更に一層恐ろしい 単にアメリカだけではなく、国連が各国の利害を超えて主導権を持って一括管理、さらに廃止に向かって活動をして欲しいものである

   →内部リンク:「アウシュヴィッツ強制収容所」
    http://konotabi.com/auschwitz/toppage.htm

古代ローマ人のトイレ2013年07月29日 16時17分39秒

世界遺産・ローマ帝国の水洗便所
 写真はイギリスの世界遺産・「ハドリアヌスの城壁」の遺跡に掲示されている物である ハドリアヌスとはあのローマ帝国の皇帝、五賢帝の一人でローマ最盛期の人である  当時ローマはブリタニア(アルビオン、現在の英国)の半分以上を征服したが、まだ北方にはケルト系の民族が抵抗していた

 こういう時代にイギリス版「万里の長城」をまず作らせたのがアントニウス、後にハドリアヌス帝が東西に渡る石製の大壁を作らせた これが現在の「ハドリアヌスの城壁」である 今でもその一部が見事に保存され世界遺産となっている

 そのなかで最も代表的なスポットが「ハウスステッズ・ローマンフォート」である その遺跡のなかに「集団トイレ」があった 一部滑落しているが、2000年後もほとんどは残っていた(それは最下部の写真リンクで見られる) 気になってしまったのは、この写真であった

 ご存じの方も多いが、当時のローマは文化的にも大変進んでおり、山から引いてきた水(水道橋)で水洗トイレをつくり、更に下水道が完備していた 当時の日本が「奴国」や「邪馬台国」だったことを考えるとそのレヴェル差は歴然としている

 そういう「水洗トイレ」の想像図には石製便器に座った男たちが右手に何かを持っている 便器間の壁がないのもやや「あれ?」だが、今の中国郡部やアメリカの大学のトイレでもそうだと言うからまあよい ところが、手に持っているのは「トイレットペーパー」なのだろうか?という疑問が湧く

 日本でも昔は杉の葉や荒縄や木の葉や割り箸だったと言うからまああり得る それにしてもどのようにして使うのだろうか? ご存じの方がいたらご教示願いたいのである

  内部リンク:世界遺産・ハドリアヌスの城壁
   http://konotabi.com/GBDrive2013/Hadrian/top.htm

「ハリーポッター」の「9と3/4番線」プラットフォーム2013年06月21日 12時18分31秒

みんな「ハリポタ」になれるロンドン・キングズクロス駅
 今回久々に行ったロンドンだが、他の都市中心だったので博物館・美術館など以外はあまり観光スポットに行っていない それでも映画関係の場所に一つだけだが行った というより、スコットランド行きの列車が「キングズクロス駅」が始発であったということによる

 その駅には「ハリーポッター →→」といった表示が実に多い その通りに行くと、大きな煉瓦壁まえにたくさんの人だかりがしている 係りの男性がいて、「はい、写真を撮るひとはここに並んで・・マフラーをまいてからね・・さあはい、いくよ・・」なんて事を言っている

 並ぶ列にはすでに30人ほどがいる どうやら無料!!らしいのだ 若い子が多いが、中年組も混ざるし日本人らしい人もいる 「ハリポタ」の人気は半端ではないようだ 案の定、ウチのカミさんも最後尾に着いた

 一人でも二人でも三人組でもやってくれる 
1 まず首にマフラーを巻き、
2 壁に前半分が切られてくっつけられたカートの取っ手を握る
3 顔をカメラの方(横)を向く
4 係りが「1,2,3!」と叫んでマフラーの端を放り上げる
5 カメラのストロボが光り、撮影終了

 こういう手順を繰り返してゆく 写真は家族、友人が撮っても良いが、ここの「公式記録員」も一眼レフカメラで同時に取ってくれる
 
 写真はすぐに傍の「ハリーポッター公認店」でも展示されて、希望者には8ポンド(約1280円くらい)で頒布してくれる この店にはパリポタ関係グッズがたくさん売られているので、土産にも良い 皆さんもロンドンに行ったらどうぞ!という話である

「ここは日本じゃぁねぇ」ニセコスキーエリア②2013年02月21日 18時03分40秒

ニセコスキー場のエリア外に向かう外国人たち
 写真は北海道のニセコスキー場のグランヒラフ・コース最上部、「キング第4リフト」を下りた場所である 当然ここより上には正式なコースはない しかもここにはロープが張ってあり、大きな告知板(お知らせ板)に日・英語で表示されている

 もっとも大きな文字は「ロープをくぐってはならない」とあり、英語でいっぱい書かれている その横には「救助費用」とあり、またも英語で細かく説明されている 要するに「ここから先はスキー場外である スキー・パトロールは巡回しない したがって自分の責任(at your own risk)で行動すること スキー場外であっても入る時間を守り、雪崩などの危険が大きいのでロープ外には絶対出ないこと もし遭難したら多額の救助費用は自分で払うことになる・・・」というようなことである

 たいていの場合はこのボーダー(境界)にはパトロールがいて注意しているが、写真のようにまず耳を貸さずにどんどん歩いて上がってゆく そのほとんどは外国人である なかでも白人が圧倒的に多い その先は二つに分かれアンヌプリ頂上(1309m)と小屋のある稜線上の小頂上の向かう そこからはまさに360°の展望で日本海から太平洋までを望め、雄大なニセコ富士(羊蹄山)も近くに望める

 そういう場所だから彼らの上がりたい気持ちは分かる 問題はその先である そのまま崖や谷側のロープをくぐって気楽にコース外(禁止区域)をどんどん滑って下りてゆく まさに「赤信号、みんなで渡れば怖くない」のである よく死亡事故が起きないものである

 ヒラフコースの「エースダイ2クワッドセンター4」リフトに乗ったらスキーパトロールの方と一緒になった
 「最近のニセコの状況はどうですか? 外国人が多いようですが・・・」
 「大変外国人が多いです 特にオーストラリア人がね また白人でもカナダ人や北欧の人も目立ってきました・・」

 「でもオーストラリアは反対の季節で分かるのですが、他は同じ北半球で季節が同じでしょう? なぜ?」
 「どうも年によってはそれらの国の雪が少ないらしいのです」
 私も前の週はカナダのバンフで滑っていたが、例年になく雪が少なかった
 彼 「ニセコのパウダー・スノーはよく知られているらしいですね」 スキーの本場よりも雪質がよいというのはスゴイ

 彼 「同じ白人でもオーストラリア人とノルウェー人は服装で分かります ノルウェー人は背が高く、蛍光色の山登りの恰好でリュックを担いで高い場所に上がってゆきますから・・」 なるほどなるほど

 私 「救助用担架(スノーボート)の乗るようなケースは何人が多いですか?」
 彼 「もちろん白人です コース外の危険な所ばかり滑りますし、急斜面を飛んだり撥ねたりしますから・・ 最近増えているアジア系も多いです 雪に慣れていないからすぐケガをする しかも軽いケガでもすぐレスキュー要請が来ます 手がかかります・・ 反面、日本人は辛抱強いです 結構なケガでも(担架は要りません)と断ることが多いです」 彼は笑った

 昼を食べに大きな「ヒュッテ・キングベル」や山小屋風「望羊荘」、1000m山小屋のヒュッテに行った どこも白人ばかりで少数の日本人はやや肩身が狭い 面白い光景があった 彼らは洋風メニューをやや無視して、牛丼、カレー、親子丼、うどんなどを注文する者が多い しかも箸を上手に持って上手に食べている しかも美味そうだ これは食べ慣れている いちばん面白かったのはカレーライスを箸だけで食べていることだ 彼らにとってはカレーは「洋食ではなく和食」なのだ 

 勇気のあるカップルがメニューの写真だけを見て初めての「ぜんざい」をたのんでいた しかし湯気の立つお椀を見ながら食べようとはしない 食べ方が分からないのだ 彼女が恐る恐る舐めてみた 「おいしいわ」 甘いから当然おいしい 彼も舐めてみて「イイ!」といった こういう彼らの探求心も最近の傾向である 「日本食はおいしい 大好き!」と多くは言う 「ヘルシー」とも言った 彼らの来日目的はスキー・ボードだけではなかったのだ

 アンヌプリ・コースのゴンドラにボードを持った白人が乗っていた たまたま日本人と話していると、その白人が少し日本語をしゃべった
 「オーストラリア人ですか?」
 「ロシア人です」 「日本人の友人に会いに来た だから少し日本語が分かる 出身はカムチャッカ半島・・」 
 「カムチャッカにはスキー場はありませんか?」
 「ヘリスキーだけです」
 「シベリアにはスキー場は無いのですか・・?」
 「良くなくてたいへんリフトが少ないです」
 「カムチャッカからはどのように来ましたか?」

 その答えに私は驚いた
 「カムチャツカから飛行機で日本海岸のウラジォストックへ、これは3000km以上あります ここから東京にまた飛行機、それからまた飛行機でサッポロに来ました それから車で・・・」 
 
 地図を見れば分かるが、カムチャツカから直線で北海道までは彼の行程の半分以下である いくら友人がいる・・とはいえ、何という「気力」と行動力であろうか! しかしゴンドラ内の短い話はここで終わった 後で乗った別のアンヌプリ・ゴンドラにもロシア人の夫婦がいた キャビン内に大声のロシア語が響く

 かくの如く最近のロシア人は行動力がスゴイ ヨーロッパのスキー場にも大勢のロシア人の団体客がいた イタリアの老舗スキー場にロシア語が飛び交っていた こうしてみると、世界各国の経済の動向がスキー客数に反映していることが分かる

 帰りの千歳空港国際線の電光掲示板を見ると、この空港がかなり大きな「国際空港」だと分かる 北京、上海、ソウル、プサン、台北、香港、グアム、サハリンのユジノサハリンスクなど・・ 最近になってハワイ航空のホノルル線とタイ航空のバンコク線が新設された タイ人は日本が好きだという これからは経済発展中の東南アジア諸国の人たちのスキー客、買い物客、観光客も大幅に増えるであろう まことに時代は変わりつつある

「ここは日本じゃぁねぇ」ニセコスキーエリア①2013年02月20日 19時08分42秒

ニセコスキー場にある日・英語併記の表示
 二十年以上前からほぼ毎年、北海道・ニセコスキー場に行っている そのくらいの長いスパンで見ると変化がよく分かる 最初の頃はあたかも「スキーブーム」の時代で、客のほとんどが日本人で、外国人はほとんど見かけなかった ブームの真っ直中のため宿の予約も取りにくかったが、リーズナブルな値段の「スキー民宿」もたくさんあった

 それが十年くらい前からであろうか、スキーブームが去ってしばらくして入れ替わるように外国人、特にオーストラリア人が増えてきた オーストラリア人の不動産屋、オーストラリア人経営のレストラン、ホテルが次々とできた 反対に日本人経営の安いスキー宿が後継者も居ないこともあってつぶれていった 私も使ったことがある宿がある年にはなくなって更地になっていた

 オーストラリアは南半球、季節は日本と反対の真夏真っ盛りである 「真夏にスキー」が出来るメリットは大きい しかもニセコは彼の地のスキー場よりはるかに雪質がよい そしてそれが喧伝されてきた また最近はずっとオーストラリアドルが強いままである そしてカンタス航空傘下のLCC(格安航空)ジェットスターが飛ぶようになった つまり若者でも気楽にやって来られるのだ しかも「食い物」は美味いし治安は大変良いのも魅力である

 さてその間にも韓国人、台湾人、香港人、中国本土人などが増えいった  しかし流石に今年は尖閣諸島問題で中国系が減っていた それでも以前私が使ったペンションの奥には立派なお屋敷風別荘が出来ていて、訊くと中国人弁護士所有だという また今年泊まった昆布温泉のホテル上方の大きなマンションは中国人が買ったという 毎夕そこの「住人」が温泉に入りに来る

 また以前、「東山コース」といわれた「ニセコヴィレッジ・コース」の旧プリンスホテルは今では「ヒルトンホテル」となり、一部は中国系資本が買ってすでに久しい ヒラフのベースである地区の看板の半分は英語である アフタースキーには外国の町の雰囲気になる

 こういう状況なので、ゲレンデは場所によって(特にヒラフ、花園コース)はスキーヤー、ボーダーの7~8割が外国人である しかもオーストラリア人が圧倒的である 特にヒラフのゴンドラ乗り場では、時として日本人の姿が見えないこともある そしてオーストラリア訛りの英語があちこちから飛び交う

 8人乗りのこのゴンドラは客の6人がオーストラリア人ボーダーで1~2人が日本人ということも日常茶飯事である 「運悪く」乗り合わせた日本人は大きな声の英語に取り囲まれ、かといって話も出来ず、下を向いたまま辛抱の6分間を過ごすことになる ゴンドラが着いてやっと板をはいた日本人のヤング・ボーダーがいみじくもこう言って下りていった 「あ~、ここは日本じゃぁねぇ~!」