古代百済王国の扶余は素敵2011年11月24日 20時23分59秒

元百済の首都にある定林寺址の国宝石塔
 長年行きたかった朝鮮三国時代の百済の地、扶余(プヨ)に行って来た 韓国は四回目で、最初は下関から関釜フェリーで釜山上陸、観光も釜山だけだった 二回目は格安航空券でソウル近現代歴史の旅、三回目は格安ツアーでめぼしい観光地を回った

 そういうほぼ一周に近いツアーでもソウル、慶州、安東、水原はあっても、扶余はなかった 今回は外国人のための「KR(韓国鉄)フリー10日間パス」を使ってやっと実現できた

 百済(ペクチェ)は古代に新羅・唐に滅ばされた国、当然跡形はあまり残っていない それでも日本人には何となく親しみがある 学校時代、社会科で「白村江の戦い」を習った ここで百済遺民・倭の連合軍は大敗し、日本へ逃げ帰った その後日本は各地に山城を築き外国軍の進入に備えた

 また百済・聖王の時代、博士や仏教、儒教などが渡来し日本に多大の影響を与えた また大陸系渡来人(帰化人)は主として朝鮮半島から来て近畿、大和地方で大きな政治、文化的影響を与えた そのため私たちには「百済」という国は何となく親しみがあるのである

 さて本題である そういう古代に滅びた国だからほとんどはっきりした形としては残っていない ある観光書には「かなりの想像力を必要とする・・」とある 当然だ そういうなかでやや残っているのが、当時大寺であった「定林寺」である 大きな石塔が残っている 写真がそれである その他には出土品が多少あるが、それでも「定林寺祉」という名で呼ばれる

 唐は百済を滅ぼした後、この仏教石塔に「唐が此処を占領した・・」などの記録を彫らしたという 何という傲慢さか 征服者の奢りである 似たような事例は歴史上多いが、ロマンの欠片もない それでもこの石塔、よくぞ千数百年も残っていてくれたものである おかげで歴史ファンは少々感慨にふけられるのである

 内部リンク:
1 定林寺祉
 http://konotabi.com/KoreaTour2011/PuyoTemple/top.htm
2 百済文化団地(復元百済国)
 http://konotabi.com/KoreaTour2011/PuyoBunka/top.htm
3 百済歴史文化館
 http://konotabi.com/KoreaTour2011/PuyoHistory/top.htm

コメント

_ 「うどんおばさん」 ― 2011年11月28日 22時12分41秒

こんばんは。ご無沙汰しております。
昨日は韓国のお土産をいただきありがとうございます。
いつもお心遣いいただき本当にありがとうございます。
HPがしばらく更新されていなかったので外国にでもお出かけされてるのかなと思っていましたが、やはり行かれてたんですね!!HPも先程ゆっくり見させていただきました。
韓国に行かずして行った様なそんな気持ちになりました。素晴らしい伝統文化が伝わってくるようなお見事な写真ですね。これからもHP楽しみにしています。
寒くなってきますのでお身体に気をつけてお出かけくださいませ。
ほっと一息されます時には、おうどんを食べにご来店くださいませ。お待ちいたしております。

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