サイト・オーナーからごあいさつ ― 2006年09月02日 16時45分08秒
<新ブログ開設のご挨拶>
みなさん、こんにちわ ようこそこのページにいらっしゃいました。
わたしが、当ブログの総支配人、”Goforit_minder”です。「旅大好き人間」です。 実は私はすでにHP「このたびのたび」を持っています。できてから5年9ヶ月になろうとしています。外国生活(仕事)時の旅行や個人の旅行写真を取りためて、それを元に文をつけたりしています。このHPはそれで何とかアクセスも頂いているのですが、その性質上「旅の裏話、苦労話」などは書きづらく、またアップするのにスピードを要するものは扱いにくいと思っていました。
それでこのたび、「ホームページ付属ブログ」として立ち上げることになりました。これからは「旅のエピソード・こぼれ話・裏話・役立ち情報」などを短く読みやすい話として載せようと思っています。 またそれらに関して、ご質問等あれば「コメント」をお寄せください。善意のものであれば、できるだけお答えしてゆこうと思っています。(なお商業サイト・メールはお受けしておりません。)
とりあえず、私のHPを見ていただければ、どういう種類・性格のHPか分かっていただけると思っています。左上のバートップにURLがありますので、クリックしてください。それでは皆様、今後ともよろしくお願いします。
当ブログ総支配人、”Goforit_minder”
みなさん、こんにちわ ようこそこのページにいらっしゃいました。
わたしが、当ブログの総支配人、”Goforit_minder”です。「旅大好き人間」です。 実は私はすでにHP「このたびのたび」を持っています。できてから5年9ヶ月になろうとしています。外国生活(仕事)時の旅行や個人の旅行写真を取りためて、それを元に文をつけたりしています。このHPはそれで何とかアクセスも頂いているのですが、その性質上「旅の裏話、苦労話」などは書きづらく、またアップするのにスピードを要するものは扱いにくいと思っていました。
それでこのたび、「ホームページ付属ブログ」として立ち上げることになりました。これからは「旅のエピソード・こぼれ話・裏話・役立ち情報」などを短く読みやすい話として載せようと思っています。 またそれらに関して、ご質問等あれば「コメント」をお寄せください。善意のものであれば、できるだけお答えしてゆこうと思っています。(なお商業サイト・メールはお受けしておりません。)
とりあえず、私のHPを見ていただければ、どういう種類・性格のHPか分かっていただけると思っています。左上のバートップにURLがありますので、クリックしてください。それでは皆様、今後ともよろしくお願いします。
当ブログ総支配人、”Goforit_minder”
航空事故は国際情勢が反映する ― 2006年09月02日 18時26分29秒
「イラン国内便が空港着陸時に火災、乗客29人死亡」(ヨミウリオンライン見出し)9月1日(昨日)イランの国内便がマシャドで着陸に失敗し炎上、29人が死亡したという(別のソースでは70人以上死亡) ここまでなら、よくある?航空事故のニュースだ
しかしニュースをよく読むと、どうも裏があるらしい イランは最近「原子力開発」でアメリカやヨーロッパ諸国から非難や経済制裁を受けていて、欧米製の新型旅客機が買えず、多くの機体が老朽化しているという このため古い機を引っ張り出し運用したものらしい こういう耐用年数を過ぎた機体が「当たり前」に飛んでいる この事故も着陸時に前輪のタイアがパンク・炎上し、機体が滑走路をはずれ炎上したのだった 機体は旧ソ連製ツポレフTu154で私も乗ったことがあるが、相当古い機である 部品の供給もままならないのだろう
また先日(8/22)にはロシアでサンクトペテルブルグ行きプルコボ航空機が巡航中に墜落炎上、170名全員が死亡した 原因は記録によると雷雨と落雷がありそれが原因とされるが、他に機内火災やテロ説さえ囁かれているが、一番信憑性があるのは、「乱気流、雷を避けずに近くを通過したのが原因」らしい ところがふつうは「安全基準」というのがあって、こういう場合は遠くにコースを変えるらしい ところが最近のはげしい「石油高騰」で世界中の航空会社が「青息吐息」で、上層部から「燃料節約」の厳しい通達が来ていたらしい そこで機は「あえて危険地域をさけなかった」という推測である
そうなると、この二つの事故はもはや「自然災害」ではなく、「政治の犠牲」であり「人災」である そしていつも犠牲になるのは、「罪もない一般乗客」である 政治家は国のメンツや意地で、経営者は経済性のことで結果的に不幸を民衆にもたらしている いつになったら、変わるのだろうか?
しかしニュースをよく読むと、どうも裏があるらしい イランは最近「原子力開発」でアメリカやヨーロッパ諸国から非難や経済制裁を受けていて、欧米製の新型旅客機が買えず、多くの機体が老朽化しているという このため古い機を引っ張り出し運用したものらしい こういう耐用年数を過ぎた機体が「当たり前」に飛んでいる この事故も着陸時に前輪のタイアがパンク・炎上し、機体が滑走路をはずれ炎上したのだった 機体は旧ソ連製ツポレフTu154で私も乗ったことがあるが、相当古い機である 部品の供給もままならないのだろう
また先日(8/22)にはロシアでサンクトペテルブルグ行きプルコボ航空機が巡航中に墜落炎上、170名全員が死亡した 原因は記録によると雷雨と落雷がありそれが原因とされるが、他に機内火災やテロ説さえ囁かれているが、一番信憑性があるのは、「乱気流、雷を避けずに近くを通過したのが原因」らしい ところがふつうは「安全基準」というのがあって、こういう場合は遠くにコースを変えるらしい ところが最近のはげしい「石油高騰」で世界中の航空会社が「青息吐息」で、上層部から「燃料節約」の厳しい通達が来ていたらしい そこで機は「あえて危険地域をさけなかった」という推測である
そうなると、この二つの事故はもはや「自然災害」ではなく、「政治の犠牲」であり「人災」である そしていつも犠牲になるのは、「罪もない一般乗客」である 政治家は国のメンツや意地で、経営者は経済性のことで結果的に不幸を民衆にもたらしている いつになったら、変わるのだろうか?
アルジェリアの松茸 ― 2006年09月03日 18時36分36秒
やっと日本の「暑く長い夏」が終わろうとしている。「暑い暑い」と思っていたが、夜になるといつの間にか秋の虫が鳴くようになった。やはり人間より虫や自然の方が敏感らしい。人間は「エアコン」でスポイルされてしまった。
秋はやはり食べ物・果物である。私たちが北アフリカのアルジェリアにいた1983~86年頃は、秋の生活の楽しみは「松茸狩り」であった。首都アルジェから車で数時間の山の中に松林があった。
当時、現地の人は「松茸を食する」という文化がなかった。だから松茸山の松茸は「牛と日本人」だけのものであった。休日の山の駐車場は日本人だらけであった。アルジェリア国内のどこから来たのか、知らない日本人もたくさんいた。・・・こうしてとにかく、私たちはもう「一生分の松茸」を食べてしまった。
→残りの詳しいことはHPで読んでください
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/photoalbum/ALG10unknown/AtlastoSahara.htm
秋はやはり食べ物・果物である。私たちが北アフリカのアルジェリアにいた1983~86年頃は、秋の生活の楽しみは「松茸狩り」であった。首都アルジェから車で数時間の山の中に松林があった。
当時、現地の人は「松茸を食する」という文化がなかった。だから松茸山の松茸は「牛と日本人」だけのものであった。休日の山の駐車場は日本人だらけであった。アルジェリア国内のどこから来たのか、知らない日本人もたくさんいた。・・・こうしてとにかく、私たちはもう「一生分の松茸」を食べてしまった。
→残りの詳しいことはHPで読んでください
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/photoalbum/ALG10unknown/AtlastoSahara.htm
今は無き社会主義「東ベルリン」での一日(その一) ― 2006年09月04日 16時28分52秒
最近、古い1980年代の銀板スライドフィルムをスキャナーで起こして、デジタルデータに置き換える作業をしている。今までのフィルムは湿気や長期保存に弱く、すでに経年変化が起きていた。そういう中に「東ベルリン」の写真があった。写真の復元作業をしながら、私はその頃を思いだしていた。
「東ベルリン」という名前は今は存在しない。文豪ゲーテの顔を印刷した「東ドイツ紙幣」も、ホーネッカー・ドイツ社会主義統一党書記長も、今はこの世に存在しない。それらすべてがまだ「現役」だった頃、私たちは休みを利用してベルリンに来ていた。
1984年夏、北アフリカ、アルジェからルフト・ハンザ航空でフランクフルトに着いてから、今は無きアメリカのフラッグ・キャリアー「パン・アメリカン航空」(のち倒産)に乗り換えた。おかしなことに、当時、「西ドイツ」の航空機は「西ベルリン」に着陸できなかったのだ。
当時はまだ「冷戦時代」で、大ベルリンは4連合国が「共同管理」していた。こういえばカッコよいが、実はまだ「占領時代」であった。そのうちの「ソ連」占領地域が「東ベルリン」であった。「東ベルリン」は「東ドイツ」の首都で、ホーネッカーが作った「ベルリンの壁」が米、英、仏管理地域「西ベルリン」との間に厳然とあった。ニュースでベルリンの壁を越えようとした「東ベルリン市民」が、「東ドイツ兵に射殺」された写真がときおり報道されていた。鉄条網に引っかかった血だらけ死体の映像は、見るたびに悲しさをこみ上げさせた。
そういう時代であるから、いかに「東ベルリン一日訪問ヴィザ」がお金を払えばすぐ入手できる・・と言われても、「興味半分、怖さ半分」であった。それでも行ってみたいのが、「好奇心人間」面目躍如の筆者であった。
当時、「東ベルリン」への入り口は「C検問所」、つまりいわゆる「チェックポイント・チャーリー」であった。上の写真である。こちら側は特に兵は機関銃を持って立っているとかではなかったが、向こう側はコンクリート製の車止めがあり、12.7mm機関銃や大探照灯が「西側」を睨んでいる。こちらがわの看板は「あなたは今アメリカ区域を離れようとしています」と英、露、仏語で書いてあった。
緊張しながら「向こう側」の検問所に向かって歩く。緩衝地帯は少しばかりの空き地になっている。隠れる所はどこにもない。そのまま歩いて、機関銃座右の粗末なオフィスに入った。中には制服を着た小太り中年のオフィサーが、ふんぞり返って手を出してパスポートを受け取った。「訪問の目的は?」「タダの観光です」 そのあと、その女性オフィサーはにっこり微笑んでスタンプをパスポートに押し、私たちに渡した。
「ヴィーフィールコステット・・?」「ナイン!」彼女は巻き舌のドイツ語訛り英語でこう言った。「あなた達はオフィシャル・パスポートです。オフィシャルは手数料はいらないのよ」「ダンケ・シェーン!」こうしてタダで東ベルリンに入ることができた。
当時の私たちのステータス「Extra chancellor of the Embassy of Japan in Algiers」 は、大使館勤務の臨時職員の身分であったが、それでも社会主義国では「黄門の印籠」の様に万能であった。「労働者と農民の国」の社会主義の何かを見たような気がした。
こうして意外に楽に「生まれて初めて社会主義国に入国」したのだが、周りの建物を見てあ然とした。依然、終戦直後のままの建物の壁には、当時のまま弾痕が残り、「昨年撃ち合いがありました」と言われても納得するような雰囲気なのであった。
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/photoalbum/GER1985Berlin/EastBerlin.htm
(以下続く)
「東ベルリン」という名前は今は存在しない。文豪ゲーテの顔を印刷した「東ドイツ紙幣」も、ホーネッカー・ドイツ社会主義統一党書記長も、今はこの世に存在しない。それらすべてがまだ「現役」だった頃、私たちは休みを利用してベルリンに来ていた。
1984年夏、北アフリカ、アルジェからルフト・ハンザ航空でフランクフルトに着いてから、今は無きアメリカのフラッグ・キャリアー「パン・アメリカン航空」(のち倒産)に乗り換えた。おかしなことに、当時、「西ドイツ」の航空機は「西ベルリン」に着陸できなかったのだ。
当時はまだ「冷戦時代」で、大ベルリンは4連合国が「共同管理」していた。こういえばカッコよいが、実はまだ「占領時代」であった。そのうちの「ソ連」占領地域が「東ベルリン」であった。「東ベルリン」は「東ドイツ」の首都で、ホーネッカーが作った「ベルリンの壁」が米、英、仏管理地域「西ベルリン」との間に厳然とあった。ニュースでベルリンの壁を越えようとした「東ベルリン市民」が、「東ドイツ兵に射殺」された写真がときおり報道されていた。鉄条網に引っかかった血だらけ死体の映像は、見るたびに悲しさをこみ上げさせた。
そういう時代であるから、いかに「東ベルリン一日訪問ヴィザ」がお金を払えばすぐ入手できる・・と言われても、「興味半分、怖さ半分」であった。それでも行ってみたいのが、「好奇心人間」面目躍如の筆者であった。
当時、「東ベルリン」への入り口は「C検問所」、つまりいわゆる「チェックポイント・チャーリー」であった。上の写真である。こちら側は特に兵は機関銃を持って立っているとかではなかったが、向こう側はコンクリート製の車止めがあり、12.7mm機関銃や大探照灯が「西側」を睨んでいる。こちらがわの看板は「あなたは今アメリカ区域を離れようとしています」と英、露、仏語で書いてあった。
緊張しながら「向こう側」の検問所に向かって歩く。緩衝地帯は少しばかりの空き地になっている。隠れる所はどこにもない。そのまま歩いて、機関銃座右の粗末なオフィスに入った。中には制服を着た小太り中年のオフィサーが、ふんぞり返って手を出してパスポートを受け取った。「訪問の目的は?」「タダの観光です」 そのあと、その女性オフィサーはにっこり微笑んでスタンプをパスポートに押し、私たちに渡した。
「ヴィーフィールコステット・・?」「ナイン!」彼女は巻き舌のドイツ語訛り英語でこう言った。「あなた達はオフィシャル・パスポートです。オフィシャルは手数料はいらないのよ」「ダンケ・シェーン!」こうしてタダで東ベルリンに入ることができた。
当時の私たちのステータス「Extra chancellor of the Embassy of Japan in Algiers」 は、大使館勤務の臨時職員の身分であったが、それでも社会主義国では「黄門の印籠」の様に万能であった。「労働者と農民の国」の社会主義の何かを見たような気がした。
こうして意外に楽に「生まれて初めて社会主義国に入国」したのだが、周りの建物を見てあ然とした。依然、終戦直後のままの建物の壁には、当時のまま弾痕が残り、「昨年撃ち合いがありました」と言われても納得するような雰囲気なのであった。
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/photoalbum/GER1985Berlin/EastBerlin.htm
(以下続く)
今は無き社会主義「東ベルリン」での一日(その二) ― 2006年09月05日 17時43分23秒
このように、復興めまぐるしい「西ベルリン」から入ると、「東ベルリン」は別世界のようであった。町並みも、人々の服装も、走る車と交通量も「戦争直後」といった様子と雰囲気であった。何となく風景がさびしい。
スーパーマーケットがあったので入ってみた。案の定、室内は照明が暗く、品数は極端に少なく種類も少なかった。ソ連・カスピ海製「キャビア」があったので、土産に買ってみた。高くはなかった。というか、他に土産になる物があまり無かった。それほど「もの」が置かれてなかった。
戦前、「ドイツ第三帝国」の首都だったベルリンは、「ヒトラーの威光」で町中が発展し、目抜き通り「ウンターデンリンデン通り」は大変賑わっていた。何かの映画でそういうシーンを見たことがあった。それを歩いてみたかったので、ブランデンブルグ門に向かって歩いていった。
人々の服装は思ったほど粗末ではなかったが、質素の範囲内であったし、午後にしては人通りも少なかった。それでもさすが目抜き通りらしく、裏通りにあったような弾痕などは修理してあった。建物もきちんと修理され、ピカピカではなかったが落ちついた町並みになっていた。
朝に「入国」ゲートをくぐってから、写真を撮りながら博物館島などに行き、ここまで緊張して歩きずくめだったので、いささか空腹になっていた。「門」が近くになったので、「もう安心」とレストランを探した。たまたま目に付いた店があった。人が5,6人並んでいた。しばらく並んでそこに入ろうとすると、ボーイがでてきて私たちをじろっと見た。
「ツヴァイ」(二人です)と私が言ったら入れてくれた。「よかったね。食べられそうだ。」そこに中国人だろうか、アジア系で身なりが質素な数人が入ろうとしていた。ボーイは「だめだめ、もう店は閉めた。入れない。」とドイツ語で言った。アジア系はドイツ語が分からないのか、「入れて入れて」という感じで押し問答になった。そういうやりとりが数分あってから、ボーイがバタンとドアを閉め、カギをかけて、ブラインドを下ろした。
私たちは幸い入れた方であったが、そのやりとりを見ていて何となく感じが悪かった。ボーイの態度も横柄であったが、それよりなぜ彼らを入れなかったのだろうか?席は半分くらいしか埋まっていなかったのだ。それではなぜ?「何か差別なんだろうか?」「中国人だったら同じ社会主義同士なのに・・」私たちはしばらく話していた。社会主義国でも公然と差別はあったのだろうか?理由は二十年以上たった今でも分からない。
当時の詳しい写真は:
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/photoalbum/GER1985Berlin/EastBerlin.htm
スーパーマーケットがあったので入ってみた。案の定、室内は照明が暗く、品数は極端に少なく種類も少なかった。ソ連・カスピ海製「キャビア」があったので、土産に買ってみた。高くはなかった。というか、他に土産になる物があまり無かった。それほど「もの」が置かれてなかった。
戦前、「ドイツ第三帝国」の首都だったベルリンは、「ヒトラーの威光」で町中が発展し、目抜き通り「ウンターデンリンデン通り」は大変賑わっていた。何かの映画でそういうシーンを見たことがあった。それを歩いてみたかったので、ブランデンブルグ門に向かって歩いていった。
人々の服装は思ったほど粗末ではなかったが、質素の範囲内であったし、午後にしては人通りも少なかった。それでもさすが目抜き通りらしく、裏通りにあったような弾痕などは修理してあった。建物もきちんと修理され、ピカピカではなかったが落ちついた町並みになっていた。
朝に「入国」ゲートをくぐってから、写真を撮りながら博物館島などに行き、ここまで緊張して歩きずくめだったので、いささか空腹になっていた。「門」が近くになったので、「もう安心」とレストランを探した。たまたま目に付いた店があった。人が5,6人並んでいた。しばらく並んでそこに入ろうとすると、ボーイがでてきて私たちをじろっと見た。
「ツヴァイ」(二人です)と私が言ったら入れてくれた。「よかったね。食べられそうだ。」そこに中国人だろうか、アジア系で身なりが質素な数人が入ろうとしていた。ボーイは「だめだめ、もう店は閉めた。入れない。」とドイツ語で言った。アジア系はドイツ語が分からないのか、「入れて入れて」という感じで押し問答になった。そういうやりとりが数分あってから、ボーイがバタンとドアを閉め、カギをかけて、ブラインドを下ろした。
私たちは幸い入れた方であったが、そのやりとりを見ていて何となく感じが悪かった。ボーイの態度も横柄であったが、それよりなぜ彼らを入れなかったのだろうか?席は半分くらいしか埋まっていなかったのだ。それではなぜ?「何か差別なんだろうか?」「中国人だったら同じ社会主義同士なのに・・」私たちはしばらく話していた。社会主義国でも公然と差別はあったのだろうか?理由は二十年以上たった今でも分からない。
当時の詳しい写真は:
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/photoalbum/GER1985Berlin/EastBerlin.htm
「改造車排除宣言工場」 ― 2006年09月06日 17時10分41秒
(今回は「旅」には関係ありません。)
いつも通りなれている国道を走っていると、「三菱ふそう」の整備工場の前を通りかかった。そこには立て看板があった。大きな字でこう書いてあった。「改造車排除宣言工場」!!ン?なんと!しばらくは運転しながらニヤニヤしてしまった。理由はみなさんご存じですよね。それだけの話です。
いつも通りなれている国道を走っていると、「三菱ふそう」の整備工場の前を通りかかった。そこには立て看板があった。大きな字でこう書いてあった。「改造車排除宣言工場」!!ン?なんと!しばらくは運転しながらニヤニヤしてしまった。理由はみなさんご存じですよね。それだけの話です。
「ベネルクス三国」を早回りしてきました ― 2006年09月19日 23時38分41秒
かなり訪問国数を増やした「旅好きオジさん」も全然行けてなかったのが、いわゆる「ベネルクス三国」・・オランダ、ベルギー、ルクセンブルグです。念願かなって、レンタカーで回ってきました。
オランダの自然と人間の共生、ベルギーの歴史と文化、ルクセンブルグの経済と自然等々、国は決して大きくはないけれど、足が地に着いた生活、物質文化にそんなにスポイルされていない生活を垣間見て、「本当の豊かな生活とは何か」を見せていただきました。またたくさん名画も見せていただきました。大満足です。
これから少しずつこのブログと本家のHP「このたびのたび」で撮り貯めた写真と感じたまま、そして見たことをあげてゆきます。興味ある方は見てくださいね。とりあえず予告でした。では。
オランダの自然と人間の共生、ベルギーの歴史と文化、ルクセンブルグの経済と自然等々、国は決して大きくはないけれど、足が地に着いた生活、物質文化にそんなにスポイルされていない生活を垣間見て、「本当の豊かな生活とは何か」を見せていただきました。またたくさん名画も見せていただきました。大満足です。
これから少しずつこのブログと本家のHP「このたびのたび」で撮り貯めた写真と感じたまま、そして見たことをあげてゆきます。興味ある方は見てくださいね。とりあえず予告でした。では。
私の大好きなフェアメアー(通称フェルメール)の「真珠の耳飾りの少女」に再会しました ― 2006年09月21日 16時04分55秒
初めて彼女に会ったのが、神戸市立美術館の特別展示。それ以来、私の心に「あの少女」が住み着いてしまったのです。その少女というのが「真珠の耳飾りの少女」です。
あの目、あの口元、あの表情・・・、オジさんはもうたまらないのです。老いらくの恋かも・・・?というわけで、また会いにオランダのデンハーグまで行って来ました。
町中のマウリッツ・ハウス美術館の少女の絵の前は日本人でいっぱい。何か「同好の氏」のあつまりみたいでしたが、誰もしゃべる者とてなく、みなさん静かに鑑賞していらっしゃいました。
かわいいなあ!またもや惚れ直しました。ウチのカミさんは、「あの絵の前から動かないから、どうするのから思った。」とあとから言う始末。
売店では、「売り子」のおばさんに、「あの少女に再会するために、わざわざ日本から来ました」というと、彼女はそばのカミさんを見て「奥さんは大丈夫?」と微笑みながら言う。カミさんは「嫉妬はしませんよ」と強調しました。彼女は「まあ、動かないから良いわよね(人畜無害)」と追加。
それから私は絵はがき、解説本、大きなポスターなどをどっさり買い込み、大事に抱えながらも、まだ後ろ髪を引かれながら美術館を後にしました。「きっとまた来ますね」と言い残して・・。
あの目、あの口元、あの表情・・・、オジさんはもうたまらないのです。老いらくの恋かも・・・?というわけで、また会いにオランダのデンハーグまで行って来ました。
町中のマウリッツ・ハウス美術館の少女の絵の前は日本人でいっぱい。何か「同好の氏」のあつまりみたいでしたが、誰もしゃべる者とてなく、みなさん静かに鑑賞していらっしゃいました。
かわいいなあ!またもや惚れ直しました。ウチのカミさんは、「あの絵の前から動かないから、どうするのから思った。」とあとから言う始末。
売店では、「売り子」のおばさんに、「あの少女に再会するために、わざわざ日本から来ました」というと、彼女はそばのカミさんを見て「奥さんは大丈夫?」と微笑みながら言う。カミさんは「嫉妬はしませんよ」と強調しました。彼女は「まあ、動かないから良いわよね(人畜無害)」と追加。
それから私は絵はがき、解説本、大きなポスターなどをどっさり買い込み、大事に抱えながらも、まだ後ろ髪を引かれながら美術館を後にしました。「きっとまた来ますね」と言い残して・・。
オランダ・ベルギーの美術館の写真をHPに載せました ― 2006年09月22日 19時58分54秒
一つ前に書いたフェアメーア(フェルメール)の「真珠のイアリングの少女」をふくむ美術館の写真を本日アップしました こういう物に興味ある方は覗いて見てください 今日のページはけっこう時間がかかったんですよ 旅行中に撮った写真は五百枚を優に超えていますので、探すのだけでも大変なんです 36mmフィルム時代はケチって撮っていましたので、それは楽でした デジカメはフィルム代がタダみたいな物ですから、つい撮りすぎてしまうんです(笑)では、どうぞご覧ください
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/photoalbum/NL_B_Museums/museums.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/photoalbum/NL_B_Museums/museums.htm
田舎の村の暁(ルクセンブルグ)の写真のこと ― 2006年09月23日 19時59分36秒
すでに何度か、このブログ(おやHP)を見ていただいた方にはお分かりでしょうが、このたび、ベネルクス三国ドライヴを「敢行」いたしました。長年の「夢」でした。この写真はちょっとクリックされる方には、「ほう、朝焼けを撮ったのか。フーン」くらいでしょうが、実はその前の日は大変だったのです。
また「ドライヴ日記」に書きますが、前の晩は「宿がない!」ということで、宿を探し回ったが、全く空き部屋が無く、急遽「アウトバーン」のサーヴィスエリアのパーキングに車を止め、その中で寝ていたのです。夜明けにふと目が覚めトイレに行くと、東の空は日の出寸前!寝ぼけ眼であわてて車内のカメラを取りに行きました。カミさんはジャンパーを被って、しあわせそうにグーグーと天国にいました!
カメラを取り出すとパーキングエリアの端まで走りました。それから少し寒い大気の中で、白い息を吐きながら写真を撮り続け、およそ20枚以上は撮ったでしょうか。この写真を撮りました。三脚は車のトランクにありましたが、時間がかかるので、それは無視して手持ちで撮りました。写真を伸ばすとアラがバレそうですが、「HP程度では誤魔化せるかも・・」とシャッターを押しました。
目で見た実際の風景はもっと朝靄がありましたが、写真にすると「あれあれ」状態です。プロの方の凄さを改めて知りました。まあ、アマなのでこれで許してくださいね。では下のクリックどうぞ。
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/photoalbum/Image/DawnatavillageLx/DawnatavillageLx.htm
また「ドライヴ日記」に書きますが、前の晩は「宿がない!」ということで、宿を探し回ったが、全く空き部屋が無く、急遽「アウトバーン」のサーヴィスエリアのパーキングに車を止め、その中で寝ていたのです。夜明けにふと目が覚めトイレに行くと、東の空は日の出寸前!寝ぼけ眼であわてて車内のカメラを取りに行きました。カミさんはジャンパーを被って、しあわせそうにグーグーと天国にいました!
カメラを取り出すとパーキングエリアの端まで走りました。それから少し寒い大気の中で、白い息を吐きながら写真を撮り続け、およそ20枚以上は撮ったでしょうか。この写真を撮りました。三脚は車のトランクにありましたが、時間がかかるので、それは無視して手持ちで撮りました。写真を伸ばすとアラがバレそうですが、「HP程度では誤魔化せるかも・・」とシャッターを押しました。
目で見た実際の風景はもっと朝靄がありましたが、写真にすると「あれあれ」状態です。プロの方の凄さを改めて知りました。まあ、アマなのでこれで許してくださいね。では下のクリックどうぞ。
http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/photoalbum/Image/DawnatavillageLx/DawnatavillageLx.htm
最近のコメント