トルコのトイレは東洋と西洋の接点? ― 2008年07月04日 00時32分44秒

海外に住んだり海外旅行に行くと、いろんなトイレに出会う そのことはすでに私のHPに「世界各地のトイレの話」に少々まとめてある トイレはまさに「文化」であり、民族によって特徴があることが一目瞭然である
わが日本だって、昔は杉の葉や木のヘラで事後、大事なところを拭いた(しごいた) 紙をまったく使わない人たちも何億人もいるのだ その代表は中近東などのイスラム系の人たちだ わたしが二十数年前に住んだ北アフリカのアルジェリアも紙は使わず、トイレに入るときに片手に水の入った空き缶を持っていた 左手で洗い流す本当の「水洗式」である 誤解のないようにいうと、現地ではちゃんと紙ロールも売っていて、外国人はこれを使っていた
さて旅の写真を整理していて、トルコで撮った「進化した(アラビア式)トイレ」を思い出した 写真のがそれである これの説明はマイHPにあるのでコピーする(以下コピー)
「・・・さらに「進化」したトイレをついに発見した。旅も終わりになってからだ。何とトイレットペーパーと水洗式水タンクと「拭いた紙用ゴミ箱」まで完備している。それに伝統的な処理法の水ポットまでが左下に見える。うれしいことにポットは素焼きだから、こういう乾燥した国では気化熱の作用もあって、水そのものが冷たいであろう。ヒヤッとして気持ちがいいかも知れない。何という素晴らしいトイレであろうか。どちらの方式でも選べる所が、押しつけがましくなくて良い。私なら「最高殊勲トイレ」の称号を与えたい。こんな素晴らしい代物だが、たったひとつ欠点がある。それは足載せ台の幅がやや狭いことだ。しかも陶器だから、水に濡れている場合や「つっかけ」の場合は足が内部に滑ってしまいそうだ。これが直後なら悲惨なことになる。」
トイレに「興味・関心」のある方はHPの方をご覧頂きたい
<世界各地のトイレの話>
http://konotabi.com/toiletstory/top1.htm
わが日本だって、昔は杉の葉や木のヘラで事後、大事なところを拭いた(しごいた) 紙をまったく使わない人たちも何億人もいるのだ その代表は中近東などのイスラム系の人たちだ わたしが二十数年前に住んだ北アフリカのアルジェリアも紙は使わず、トイレに入るときに片手に水の入った空き缶を持っていた 左手で洗い流す本当の「水洗式」である 誤解のないようにいうと、現地ではちゃんと紙ロールも売っていて、外国人はこれを使っていた
さて旅の写真を整理していて、トルコで撮った「進化した(アラビア式)トイレ」を思い出した 写真のがそれである これの説明はマイHPにあるのでコピーする(以下コピー)
「・・・さらに「進化」したトイレをついに発見した。旅も終わりになってからだ。何とトイレットペーパーと水洗式水タンクと「拭いた紙用ゴミ箱」まで完備している。それに伝統的な処理法の水ポットまでが左下に見える。うれしいことにポットは素焼きだから、こういう乾燥した国では気化熱の作用もあって、水そのものが冷たいであろう。ヒヤッとして気持ちがいいかも知れない。何という素晴らしいトイレであろうか。どちらの方式でも選べる所が、押しつけがましくなくて良い。私なら「最高殊勲トイレ」の称号を与えたい。こんな素晴らしい代物だが、たったひとつ欠点がある。それは足載せ台の幅がやや狭いことだ。しかも陶器だから、水に濡れている場合や「つっかけ」の場合は足が内部に滑ってしまいそうだ。これが直後なら悲惨なことになる。」
トイレに「興味・関心」のある方はHPの方をご覧頂きたい
<世界各地のトイレの話>
http://konotabi.com/toiletstory/top1.htm
ヒルトン・ホテルのロビーをショート・パンツで歩いてしまった ― 2008年07月04日 22時37分08秒

今日のラジオで「旅先でオートロックに閉め出された話」をやっていた それを聞いて思い出した あれはトルコ・ツアーに参加した時だった やはり「オートロックにやられた」のである
私の場合、ふつう個人で旅するときはまったくありそうもない話である それは「安いホテルでしかも大きな旅行鞄は自分で運ぶ」からである ところがツアーの場合は、値段の割に4つ星や5つ星のホテルが入っていたりする けっこう世界的なホテル・チェーンにも泊まるのだ
トルコの場合は、「たぶん4つ星」のコンヤ・ヒルトンに泊まることになった 名前通り広い郊外の敷地に、テニスコート、大プールがあり、内部には大きなショッピング・モールがあった 決して自分では泊まらない(泊まれない)ホテルである
ツアーでは必ず添乗員がこう言う 「明日の朝はレストランで朝食を済ませてください レストランは7時に開いています 大きな鞄類は7時半までに部屋の前に出して置いてください 係員が持って行きます 集合はロビーに7時50分、出発は8時ちょうど それまでにご自分でチェックアウトはすませてください それでは部屋のカギを渡します・・・・」
中進国であっても、高級ホテルになるほどオートロックは当たり前である 私もどういう物かも良く知っている 部屋を出るときはいつもカギを持ったのを確認してから外出していた
朝が来た 朝食の前に鞄を廊下に出そうとした その時の服装は寝間着代わりのショートパンツとTシャツ、まだGパンも穿いていなかった 片足をドアにかけて、片足を廊下に出してサムソナイトをドアの外に出した その時うかつにも引っかけた足がドアから外れた ドアは静かにパタンと閉まった 「わっ!!!」と声が出た しかしどうにもならない
ドアのノブを引っ張ってみたが、当然どうにもならない 数秒おいてから、ロビーのレセプションに行くしかないと分かった エレヴェーターに乗ってボタンを押した しかしそういう時に限って無情にも各階で止まり、客が乗ってくる 彼らはチラッと私を見て一様にニヤッとする ショーパン、Tシャツに加えて、旅行用に持ってきたスリッパを履いていた とても高級ホテルの客の姿ではない
こうしてやっとレセプションにたどり着き、訳を話してその階の「マスターキー」を借りた 「このキーは直ぐに返しに来てください」と言われた 部屋に帰ってなかに入ると、どっと汗がでた 「旅慣れている」と自負している筆者もけっこうドジなのである
私の場合、ふつう個人で旅するときはまったくありそうもない話である それは「安いホテルでしかも大きな旅行鞄は自分で運ぶ」からである ところがツアーの場合は、値段の割に4つ星や5つ星のホテルが入っていたりする けっこう世界的なホテル・チェーンにも泊まるのだ
トルコの場合は、「たぶん4つ星」のコンヤ・ヒルトンに泊まることになった 名前通り広い郊外の敷地に、テニスコート、大プールがあり、内部には大きなショッピング・モールがあった 決して自分では泊まらない(泊まれない)ホテルである
ツアーでは必ず添乗員がこう言う 「明日の朝はレストランで朝食を済ませてください レストランは7時に開いています 大きな鞄類は7時半までに部屋の前に出して置いてください 係員が持って行きます 集合はロビーに7時50分、出発は8時ちょうど それまでにご自分でチェックアウトはすませてください それでは部屋のカギを渡します・・・・」
中進国であっても、高級ホテルになるほどオートロックは当たり前である 私もどういう物かも良く知っている 部屋を出るときはいつもカギを持ったのを確認してから外出していた
朝が来た 朝食の前に鞄を廊下に出そうとした その時の服装は寝間着代わりのショートパンツとTシャツ、まだGパンも穿いていなかった 片足をドアにかけて、片足を廊下に出してサムソナイトをドアの外に出した その時うかつにも引っかけた足がドアから外れた ドアは静かにパタンと閉まった 「わっ!!!」と声が出た しかしどうにもならない
ドアのノブを引っ張ってみたが、当然どうにもならない 数秒おいてから、ロビーのレセプションに行くしかないと分かった エレヴェーターに乗ってボタンを押した しかしそういう時に限って無情にも各階で止まり、客が乗ってくる 彼らはチラッと私を見て一様にニヤッとする ショーパン、Tシャツに加えて、旅行用に持ってきたスリッパを履いていた とても高級ホテルの客の姿ではない
こうしてやっとレセプションにたどり着き、訳を話してその階の「マスターキー」を借りた 「このキーは直ぐに返しに来てください」と言われた 部屋に帰ってなかに入ると、どっと汗がでた 「旅慣れている」と自負している筆者もけっこうドジなのである
素敵なアムステルダムの人々の暮らし ― 2008年07月05日 19時07分29秒

2年前の夏、レンタ・カーで「ベネルクス三国」を周遊した その時は主に<美術館・博物館めぐり>が目的であった なにせゴッホを生み、フェルメールを生み、レンブラント・・を生んだ国である やはり地元の美術館には多くの名画が収蔵されていて、十分堪能した
しかしそういうことの他に、人々の「足が地に着いた生活」が垣間見られて、ずいぶん考えさせられたのである 今回はオランダのことだけについて書く オランダは私たちが学校時代に「干拓で土地を作った 国土のかなりの部分が海面下である・・・・」などと習ったものだ 入試問題には「干拓地ポルダー」がよく出題された
旅行中各地のキリスト教会も見たが、ほとんどは「プロテスタント」で「勤勉こそ大事な物」という精神が散見された 狭い土地に多くの人口(高い人口密度)で土地自体ももともとは肥沃ではない 働いて貯蓄し、勉強して学問を究め、土地と富を求めて海外に進出した
さらに歴史の中では、スペインに長い間「植民地」にされて苦しみ、やっと「独立」した そういう土地では市民の自覚が高いし、自治という意識も高かった そういう意味では、日本と最も長いつきあいがあるが、中身は最も相違の大きい国である
さてアムステルダムでは、以前から行きたかった「アンネ・フランクの家」に行った やはり「超有名観光スポット」で世界中から人が来て、この建物を取り囲み入場を待っていた その前は運河で、町自体が「運河の町」と言っても過言ではない その近くの写真が上の物だ
夕方になると、人々は家族ごと小さなモーターボートに乗り、こうして運河を行き交う 他の家族は自転車に乗って、また赤ちゃん連れは三輪自転車に子どもを乗せて、自転車専用道を走る 郊外では運河で子どもたちだけのヨットが歓声を上げて滑るように行き交う それはフツーのことである
日本人から見ると、羨ましいくらい「スローライフ」「エコライフ」が身に付いている 戦後、私たちはアメリカ人の生活にあこがれ、「物質優先」の生活を追求してきた しかしそれは行き詰まってきた 地球環境や天然資源などの問題が大きく騒がれる今、オランダの人々のような「足が地に着いた」堅実な生き方も大いに参考になるだろうと思われる
(マイHP内部リンク)
アムステルダム市民の生活2006CivilianLife
http://konotabi.com/photoalbum/NL_Amsterdam_peoplelife/urbanlife.htm
アムステルダム2006Amsterdam
http://konotabi.com/photoalbum/NL_Amsterdam/fotoandlinks.htm
しかしそういうことの他に、人々の「足が地に着いた生活」が垣間見られて、ずいぶん考えさせられたのである 今回はオランダのことだけについて書く オランダは私たちが学校時代に「干拓で土地を作った 国土のかなりの部分が海面下である・・・・」などと習ったものだ 入試問題には「干拓地ポルダー」がよく出題された
旅行中各地のキリスト教会も見たが、ほとんどは「プロテスタント」で「勤勉こそ大事な物」という精神が散見された 狭い土地に多くの人口(高い人口密度)で土地自体ももともとは肥沃ではない 働いて貯蓄し、勉強して学問を究め、土地と富を求めて海外に進出した
さらに歴史の中では、スペインに長い間「植民地」にされて苦しみ、やっと「独立」した そういう土地では市民の自覚が高いし、自治という意識も高かった そういう意味では、日本と最も長いつきあいがあるが、中身は最も相違の大きい国である
さてアムステルダムでは、以前から行きたかった「アンネ・フランクの家」に行った やはり「超有名観光スポット」で世界中から人が来て、この建物を取り囲み入場を待っていた その前は運河で、町自体が「運河の町」と言っても過言ではない その近くの写真が上の物だ
夕方になると、人々は家族ごと小さなモーターボートに乗り、こうして運河を行き交う 他の家族は自転車に乗って、また赤ちゃん連れは三輪自転車に子どもを乗せて、自転車専用道を走る 郊外では運河で子どもたちだけのヨットが歓声を上げて滑るように行き交う それはフツーのことである
日本人から見ると、羨ましいくらい「スローライフ」「エコライフ」が身に付いている 戦後、私たちはアメリカ人の生活にあこがれ、「物質優先」の生活を追求してきた しかしそれは行き詰まってきた 地球環境や天然資源などの問題が大きく騒がれる今、オランダの人々のような「足が地に着いた」堅実な生き方も大いに参考になるだろうと思われる
(マイHP内部リンク)
アムステルダム市民の生活2006CivilianLife
http://konotabi.com/photoalbum/NL_Amsterdam_peoplelife/urbanlife.htm
アムステルダム2006Amsterdam
http://konotabi.com/photoalbum/NL_Amsterdam/fotoandlinks.htm
「自動車の化石」・・旧東ドイツの名車?トラバント ― 2008年07月19日 13時54分51秒

この写真は数年前、ハンガリーを旅した時、ブダの王宮城壁脇に駐車していた「旧東ドイツの名車・トラバント」を撮った物である この車は「東西冷戦時代」の社会主義圏の工業力を象徴していた車であった <「2サイクルエンジン」で煙を吐きながら走る非力の「段ボール製」の自動車>と言われていた 詳しくは「Wikipedia」にあるので、引用しよう
(以下引用)
「ボール紙のボディの車」といわれることがあるが、実際は長いモデルライフを通じて、ボディの基本材料は繊維強化プラスチック(FRP)である。東ドイツ末期に製造品質が下がってくると表面の質感がボール紙のように見えた事から、低い仕上げ品質を揶揄した表現である。ただし、末期は製造コスト低減のため、実際にプラスチックに紙パルプを混ぜ込んでいた。ベルリンの壁崩壊の直後からは、最新式のフォルクスワーゲン・ゴルフと古色蒼然としたトラバントが、肩を並べて走るようになり、双方のドライバーとそれらを見比べた者に強烈なカルチャーショックを与えた。東側諸国の人々がトラバントに乗って国境検問所を続々と越える光景は、東欧における共産主義体制終焉の一つの象徴的シーンともなった。生産中止後10年以上を経過し、走行性能・安全性・環境性能が数十年前の水準ということもあって、旧東ドイツ地域および周辺諸国においては、急激に淘汰されている。」
(以上引用)
ポーランド、チェコ、ハンガリーなど「旧東欧圏」を旅すると、減りつつはあるが必ず目にする車である 日本やヨーロッパなど「自動車先進国」では決して「受け入れられない(売れない)車」である 「国家独占企業で競争のない社会」でしか生産され得なかった「工業製品」である
日本の車は「世界先進レヴェル」として、世界中で受け入れられているのは衆知の事実であるが、それというのも「過当ともいえる価格と品質競争」に打ち勝って現在の地位を得てきたのである こうして見れば、「トラバント」は「競争のない社会が如何に社会の進歩を停滞させる」かを証明して見せたのだ
翻って、「すべて平等が美徳、競争は罪悪」という戦後の教育が近年の日本の教育レベル低下に「貢献」してきたことが明白に分かるのである すべての子どもの「それぞれの良いところを見つけ、能力を最大限に伸ばさなかった」ツケはまことに大きいと言わざるを得ない
外部リンク:(Wikipedia):「トラバント」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%88
注:この記事はマイHP「このたびのたび」の「旅の話題」から転載しました
(以下引用)
「ボール紙のボディの車」といわれることがあるが、実際は長いモデルライフを通じて、ボディの基本材料は繊維強化プラスチック(FRP)である。東ドイツ末期に製造品質が下がってくると表面の質感がボール紙のように見えた事から、低い仕上げ品質を揶揄した表現である。ただし、末期は製造コスト低減のため、実際にプラスチックに紙パルプを混ぜ込んでいた。ベルリンの壁崩壊の直後からは、最新式のフォルクスワーゲン・ゴルフと古色蒼然としたトラバントが、肩を並べて走るようになり、双方のドライバーとそれらを見比べた者に強烈なカルチャーショックを与えた。東側諸国の人々がトラバントに乗って国境検問所を続々と越える光景は、東欧における共産主義体制終焉の一つの象徴的シーンともなった。生産中止後10年以上を経過し、走行性能・安全性・環境性能が数十年前の水準ということもあって、旧東ドイツ地域および周辺諸国においては、急激に淘汰されている。」
(以上引用)
ポーランド、チェコ、ハンガリーなど「旧東欧圏」を旅すると、減りつつはあるが必ず目にする車である 日本やヨーロッパなど「自動車先進国」では決して「受け入れられない(売れない)車」である 「国家独占企業で競争のない社会」でしか生産され得なかった「工業製品」である
日本の車は「世界先進レヴェル」として、世界中で受け入れられているのは衆知の事実であるが、それというのも「過当ともいえる価格と品質競争」に打ち勝って現在の地位を得てきたのである こうして見れば、「トラバント」は「競争のない社会が如何に社会の進歩を停滞させる」かを証明して見せたのだ
翻って、「すべて平等が美徳、競争は罪悪」という戦後の教育が近年の日本の教育レベル低下に「貢献」してきたことが明白に分かるのである すべての子どもの「それぞれの良いところを見つけ、能力を最大限に伸ばさなかった」ツケはまことに大きいと言わざるを得ない
外部リンク:(Wikipedia):「トラバント」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%88
注:この記事はマイHP「このたびのたび」の「旅の話題」から転載しました
オランダのドライヴァーはクレイジー! ― 2008年07月20日 23時57分43秒

オランダでレンタ・カーを借りて、ベネルクス三国をまわった時のこと 私たちは美術館巡りが大好きで、名画を持つ美・博物館なら国内外を問わず訪れる
オランダでいうと「フェルメール」の大ファンで、「いつか行くぞ」と決めていた その絵というのが「真珠のイアリングの少女(青いターバンの少女)」であり、それはデンハーグのマウリッツハイス美術館にあることも分かっていた
その絵との最初の出会いは日本の神戸市立美術館(特別展)だったと思う 大きな絵ではないが、私はその絵の前から動けなかった その日から私は「その少女」に恋してしまった またいつか「本国」に会いに行くぞと決めていた
そういうわけで、アムステルダムからデンハーグの美術館近くまで運転し、近隣の公園のパーキングにとめて見学に行った 時間をかけて鑑賞し、車まで帰ったとき私の目が点になった 私の車の後ろにとめた車がぜんごとも10~15cmしか空けていなかったのだ いったいどうしたらこういうことが出来るのか?! 幸い私の車の前が少々空いていたので、時間をかけて脱出できた
どうやったのかは未だに不明だが、いくら何でも日本にはここまでする人はいないだろう 上はその時の写真である(右手の赤い車がマイレンタカー)
私が恋した少女:「真珠のイアリングの少女」(マイHP背景写真)
http://konotabi.com/renewalinfo2/renewalwinter.htm
オランダでいうと「フェルメール」の大ファンで、「いつか行くぞ」と決めていた その絵というのが「真珠のイアリングの少女(青いターバンの少女)」であり、それはデンハーグのマウリッツハイス美術館にあることも分かっていた
その絵との最初の出会いは日本の神戸市立美術館(特別展)だったと思う 大きな絵ではないが、私はその絵の前から動けなかった その日から私は「その少女」に恋してしまった またいつか「本国」に会いに行くぞと決めていた
そういうわけで、アムステルダムからデンハーグの美術館近くまで運転し、近隣の公園のパーキングにとめて見学に行った 時間をかけて鑑賞し、車まで帰ったとき私の目が点になった 私の車の後ろにとめた車がぜんごとも10~15cmしか空けていなかったのだ いったいどうしたらこういうことが出来るのか?! 幸い私の車の前が少々空いていたので、時間をかけて脱出できた
どうやったのかは未だに不明だが、いくら何でも日本にはここまでする人はいないだろう 上はその時の写真である(右手の赤い車がマイレンタカー)
私が恋した少女:「真珠のイアリングの少女」(マイHP背景写真)
http://konotabi.com/renewalinfo2/renewalwinter.htm
「関ヶ原」以上の戦い:ワーテルロー ― 2008年07月22日 18時06分09秒

私たちの「ベネルクス三国ドライヴ」は大変欲張りな物であった 主な美術館をみる、歴史上でてくる場所に行く、歴史的人物ゆかりの場所を見る・・などヨーロッパ在住者でもないのに、欲張りすぎていた
そういう中に、あのナポレオンが敗北、歴史から名が消えた大会戦の場所、ワーテルローがあった 英語ではウォータールーという ベルギーの首都ブルッセルからアウトバーンを使うと、けっこう早くワーテルローの村に着く
ところが大誤算があった いつものように「予約なし」で宿を探すと部屋は全くなし!、というのはこの時期9月はアムステルダムは会議シーズンで、首都郊外に当たるこの地も予約で埋まっていた 探し回ってやっと「古戦場」から何十キロも離れた山中のホテルに泊まれた
翌日、やっと古戦場に着いた 有名な割には閑散とした農村であった もちろん「パノラマ博物館」など「日本的施設」はあるが、それ以外は「ナポレオン饅頭」や「ワーテルロー煎餅」の店などはなかった!
古戦場を示すただ一つの物は「ブッテドリオン」と呼ばれるライオン像が頂上にある人口の丘、ナポレオン没落後に連合国(戦勝国)が土木工事で作った物だそうだ 例えれば、関ヶ原古戦場に家康軍が巨大な戦勝記念物を作るに似ている
しかしながら(残念ながら)、世界における歴史的意味は関ヶ原の比ではない 「フランス革命の後継者」と自称した(皇帝)ナポレオンが、ヨーロッパの英・蘭・プロシア王国連合軍に大敗北し、セント・ヘレナ島に流される この後、彼は「毒殺」されたと言われる
こうしてヨーロッパは歴史が少し巻き戻されたが、有名な英国の大財閥ロスチャイルド(ロスチルド)はこれを機に大儲けをして財をなしたといわれる こうしてまたもやイギリスはしばらくの間、歴史の表面に居続けることになる 以後「ワーテルロー」の名は「完膚無き大敗戦」をさすようになった
そういう「歴史の大舞台」も今は静かな農村である
内部リンク:写真・ワーテルロー
http://konotabi.com/photoalbum/Belgium_Napoleon/ButteduLion.htm
内部リンク:ベネルクス・ドライヴ・ダイアリー第七日
http://konotabi.com/BeneluxDrive/Benelux5_8/Day5_8.htm#Day7
そういう中に、あのナポレオンが敗北、歴史から名が消えた大会戦の場所、ワーテルローがあった 英語ではウォータールーという ベルギーの首都ブルッセルからアウトバーンを使うと、けっこう早くワーテルローの村に着く
ところが大誤算があった いつものように「予約なし」で宿を探すと部屋は全くなし!、というのはこの時期9月はアムステルダムは会議シーズンで、首都郊外に当たるこの地も予約で埋まっていた 探し回ってやっと「古戦場」から何十キロも離れた山中のホテルに泊まれた
翌日、やっと古戦場に着いた 有名な割には閑散とした農村であった もちろん「パノラマ博物館」など「日本的施設」はあるが、それ以外は「ナポレオン饅頭」や「ワーテルロー煎餅」の店などはなかった!
古戦場を示すただ一つの物は「ブッテドリオン」と呼ばれるライオン像が頂上にある人口の丘、ナポレオン没落後に連合国(戦勝国)が土木工事で作った物だそうだ 例えれば、関ヶ原古戦場に家康軍が巨大な戦勝記念物を作るに似ている
しかしながら(残念ながら)、世界における歴史的意味は関ヶ原の比ではない 「フランス革命の後継者」と自称した(皇帝)ナポレオンが、ヨーロッパの英・蘭・プロシア王国連合軍に大敗北し、セント・ヘレナ島に流される この後、彼は「毒殺」されたと言われる
こうしてヨーロッパは歴史が少し巻き戻されたが、有名な英国の大財閥ロスチャイルド(ロスチルド)はこれを機に大儲けをして財をなしたといわれる こうしてまたもやイギリスはしばらくの間、歴史の表面に居続けることになる 以後「ワーテルロー」の名は「完膚無き大敗戦」をさすようになった
そういう「歴史の大舞台」も今は静かな農村である
内部リンク:写真・ワーテルロー
http://konotabi.com/photoalbum/Belgium_Napoleon/ButteduLion.htm
内部リンク:ベネルクス・ドライヴ・ダイアリー第七日
http://konotabi.com/BeneluxDrive/Benelux5_8/Day5_8.htm#Day7
ヨーロッパ戦線の「英雄」・パットン将軍の墓 ― 2008年07月26日 15時04分35秒

「ベネルクス三国ドライヴ」時の話
私はベイビーブーマーなので、第二次大戦ごろの歴史も大好きだ 戦争は大嫌いだが、その時代のことには大いに関心がある
私は古い映画ファンでもあるので、戦後からしばらくの映画は大体見てきた そのなかで、アカデミー作品賞受賞作品「パットン大戦車軍団」(原題「PATTON」)がある 強烈な個性で米軍第三軍を率いてヨーロッパで活躍した将軍である
彼のモットーは「行け!進め!」の猛勇型指導者で、「戦場で震える兵士は臆病者」という考えのもと、兵士を殴打したのでも問題になった
しかし戦績が素晴らしく、北アフリカからイタリアへの進軍は猪突猛進で、被害も大きい代わり戦果も上げた
しかし彼の言動はたびたび問題を引き起こす とくに「反共」であった彼はアメリカの同盟軍であった旧ソ連軍を侮辱したため、「謹慎状態」におかれた しかしナチ(ドイツ軍)に包囲されたバストーニュのアメリカ軍を不眠不休で救ったことから、一躍「英雄」になった
しかし時代は彼のような「無骨豪胆」だけの軍人はもう必要とされていなかった むしろ政治や社会に目を向けられる「バランスのとれた」人物が歓迎されるようになっていた 日本で言うと、加藤清正ではなく石田三成なのである
そういう「歴史上の人物」を描いた大作映画であったが、その「英雄」はアメリカ軍人なのにワシントンのアーリントン墓地ではなく、ルクセンブルグの米軍墓地に眠っていたのだ
私たちのこのドライヴの最終目的地はこの墓地のパットンの墓であった 尊敬はしないが、大変興味深い人物として墓参りをしたのだった
マイHP内部リンク:
ルクセンブルグアメリカ軍墓地:
http://konotabi.com/photoalbum/Lux_Patton/Americancemetery.htm
私はベイビーブーマーなので、第二次大戦ごろの歴史も大好きだ 戦争は大嫌いだが、その時代のことには大いに関心がある
私は古い映画ファンでもあるので、戦後からしばらくの映画は大体見てきた そのなかで、アカデミー作品賞受賞作品「パットン大戦車軍団」(原題「PATTON」)がある 強烈な個性で米軍第三軍を率いてヨーロッパで活躍した将軍である
彼のモットーは「行け!進め!」の猛勇型指導者で、「戦場で震える兵士は臆病者」という考えのもと、兵士を殴打したのでも問題になった
しかし戦績が素晴らしく、北アフリカからイタリアへの進軍は猪突猛進で、被害も大きい代わり戦果も上げた
しかし彼の言動はたびたび問題を引き起こす とくに「反共」であった彼はアメリカの同盟軍であった旧ソ連軍を侮辱したため、「謹慎状態」におかれた しかしナチ(ドイツ軍)に包囲されたバストーニュのアメリカ軍を不眠不休で救ったことから、一躍「英雄」になった
しかし時代は彼のような「無骨豪胆」だけの軍人はもう必要とされていなかった むしろ政治や社会に目を向けられる「バランスのとれた」人物が歓迎されるようになっていた 日本で言うと、加藤清正ではなく石田三成なのである
そういう「歴史上の人物」を描いた大作映画であったが、その「英雄」はアメリカ軍人なのにワシントンのアーリントン墓地ではなく、ルクセンブルグの米軍墓地に眠っていたのだ
私たちのこのドライヴの最終目的地はこの墓地のパットンの墓であった 尊敬はしないが、大変興味深い人物として墓参りをしたのだった
マイHP内部リンク:
ルクセンブルグアメリカ軍墓地:
http://konotabi.com/photoalbum/Lux_Patton/Americancemetery.htm
最近のコメント